よく表現方法で、”心が折れる”って見かけますよね。
今まであまり気にしていなかったし、僕も”心”を扱うプロの端くれですから、今まで使っていなかったのかと言われれば自信ないですが、ちょっとこの”心が折れる”という表現を考えてみたいと思います。
”自由なこころの空間”をうたい文句にしてる僕が言うのもなんですが、”心”って目に見える形としては存在してはいないですよね。
目に見える形として存在してはいないけど、確かにそこにあるだろうっていう感覚はありますが、抽象的な概念でしかない、ですよね。
それでは、その目に見えない、存在しない抽象的な概念の”心”って、”折れる”もの、なんでしょうか?
だからと言っても、確かに、”はあ~、心折れそうだわ”なんて言われると、違和感なく本当に辛そうだなって伝わりますよね。
そうなんです、伝わっちゃうんですよ。ですから表現としては本当に素晴らしいんですよね。
でも、逆に言うなら、伝わっちゃうからこそ、問題を複雑にしちゃうのではないかな、って気がします。
それでは、一体どんな時に、”心が折れる”って表現するんでしょう?
どうなんでしょう、辛い状況に身を置いていて、ギリギリ耐えている時は”心が折れそう”で、もう無理って時に、”心が折れる”になるんでしょうか。
ギリギリ耐える時って、どうしたら耐えられるんでしょう。頑張って耐えてる、のではないでしょうか?
頑張って頑張って耐えようとして、頑張り過ぎて疲れ果て、もう無理ってなって、”心が折れる”となってしまう・・・。うーん、書いていても辛いですねえ。
頑張って耐えるって、元々無理がありますよね。堪え切れたとしても、疲れ果てちゃいますよね。
ですから、頑張って耐える時点で、ひょっとかしたら、そのもの自体(こだわりとでもしときましょうか)、間違っている可能性もあるかもしれません。
そんな時、ちょっとだけ自分の周りを見て下さい。
周りの人も条件は同じなのに、そんな状況になっているのは、自分だけって事はないでしょうか?
となると、一体何が違うんでしょうか?
頑張らないと耐えられない自分のこだわりが、自分自身を苦しめている、という事はないんですかね。
”心が折れそう”ではなく、”こだわりが折れそう”
”心が折れる”ではなく、”こだわりが折れる”
これならなんとかなりそうな気になりませんか?
これならなんとかできそうな気になりませんか?
これならなんとかしてみようという気になりませんか?
そんな風に感じて頂ければ幸いです。