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航のこらむ
サイト管理人のこらむです。
読み物として見て下さい。何かヒントになるかもしれません。
少しでもあなたの助けになれば幸いです。

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習慣を変えるということ

つい最近の事ですが、友人も同じ習慣を変えた事を知りました。
2~3ヵ月、1日、
同じ習慣を変えるのにかかった日数です。

さて、どちらがどちらでしょう?

もちろん、僕は専門家です、ですから分かりますよね。

なんて言いたいのですが、残念な事に僕は2~3ヵ月かかりました。

話を聞いた時、マジビビりました。
まさかたった1日で変えたなんて、と。
僕が2~3ヵ月もかかったのに・・・飲みの席でしたので、うっとおしく絡んでやりました、悔しかったので。
昔から出来る奴でしたので仕方ないですよね。うん、仕方ない・・・。

少々愚痴っぽくなってしまいましたが、どんな習慣を変えたかというと、
歯ブラシを濡らしてから歯磨き粉を塗るか、
歯ブラシを濡らさずに歯磨き粉を塗るか、
つまり、毎日欠かさず行う歯磨きの習慣です。

これほど分かりやすい習慣を変えるというケースはないです。
誰もが小さい頃から毎日欠かさず行ってきた行為、
それを意識して変化させ、今まで通り自然に呼吸するが如く変化させる。
非常に難しいと、僕は思います。
たった1日で変えた奴もいますが・・・。

イコールではないですが、有言実行と不言実行に近いです。
意識して出来るのは当たり前、
だって、自然ではないですよね、意識してますから。
意識してない時に出来るようになって、それがずっと続くようになれば習慣が変わり根付いたという事です。

1日目から強い意志をずっと持ち続け、無意識化でも濡らさず歯ブラシをする。
その一方、
何度も歯ブラシを無意識化で濡らしてしまい、あちゃぁと朝っぱらから思ってしまう。
・・・個人差が現れますね。

今までの自然が不自然に、不自然が自然に、
歯磨きという対した事ない習慣の変化ですが、達成した経験はいい経験だと個人的には思います。
時間の程度は個人によって違いますが、要は達成さえすれば、いいんです。
そう、いいんです。
大事な事ですんで、2回書いときました。

どんな事を変化させたいか、
変化する内容は違えど、辿る過程は一緒ですからね。

全体を把握する

時間は常に流れています。
これは変わることがない自然の定理です。

相談と愚痴って、比べてみるとちょっとした違いがあります。
理性と感情、客観的と主観的、等々で区別できます。
どちらがどちらに分類できるかは一目瞭然ではないかと思います。

頭では分かってるけど納得できない、というのは聞く方としてはまだマシなのですが、
頭で分かろうとせず納得できない、というのは聞くほうとして苦痛を持たらします。

一部分だけを切り取ったのと、
流れでその前の部分から見てるのでは、
自ずと答えが変わってきます。

問題の部分だけしか見ずにそれに対処すると、大きな歪みができます。
当たり前ですよね、物語と違うんです。
時間は流れているんです。
ぱっとその問題だけが発生するわけないんです。

理不尽を感じている方は多いと思います。

なら、それに対して自分で対応するしか手はありません。

いずれ気付いてくれるかもなんて期待してどれだけ経っていますか。
人は自分が見たいものしか見ません。
意識的にしろ、無意識にしろ無視ができます。

問題に感じたら自分で対処するしかありません。
前の部分から、具体的に分かりやすく、時系列に沿って説明して話し合うしかありません。
もちろん、自分も例外ではありません。
自分自身も見たいものしか見ていません。
ですが、話すことによって気付かされます。
客観的に物事を全体で見ることができます。

それを受け入れるかどうかでまた、対応が変わってくるでしょう。

過ちは仕方ありません。
大事なのは、同じ事を繰り返さないことではないでしょうか。
同じ事を繰り返すたびに、周りから人々は離れていきます。

それもまた、仕方ないことなんです。
それなりの理由がある、ということなんです。

選択肢は常に自分しか持っていません。
何を選ぶか、自由に選択できますが、自由ほど不自由なものはありません。
おかしなものですよね。

#僧衣運転 お墨付きだもん

今朝の中日新聞のある記事のタイトルです。
内容は省かせてもらいますが、僕的にはとても良い内容だと思います。

なんかこれってちょっとおかしくない、
そう思ったら、素直にその思いに反応し、声を出す。

声を出すことによって、表に出なかったものが表に出ることになり、
より多くの意見が出て、客観的に、冷静に判断される。

世間一般的な常識に基づいて、物事が変化する。

声を出したから、物事が変化します。
自分で声を出したからこそ、変化します。

声を出さなければ、変わりません。
いつまでも、同じままです。

自分さえ我慢すれば、いずれなんとかなる。
自分さえ我慢すれば、いずれ嵐も収まる。

そんなこと、ないです。
人が起こした行動である以上、収まってもまたすぐ嵐はやってきます。

見ていて、気分悪いなと思うなら、
素直にその思いに反応しましょう。

声を出して、行動することによって、
自分の気分の悪さも解消されますし、その人の助けになるかもしれません。

もちろん、何かを助けるということは、何かを助けないということです。
どんな尊い行動にも、責任が伴います。
自己満足にならないよう、
自己陶酔しないよう、自分の為に取った行動だと自覚しましょう。

真剣な思いは相手に届きます。
自分が信じて行動したことは間違いじゃなかったと、
あらためて思うことができると、経験上保証します。

こんな言葉は陳腐であまり好きではないんですが、
少しでも、優しい世界になればいいと、素直に思います。

目は口ほどにものを言う

人は生きていくうえでどこかしらの集団に必ず属しています。
学生なら学校、社会人なら会社、地域社会等、好き嫌いに関わらず他人と関わらなければ生きていけません。
ですから、人間関係というものはなくなるものではありません。
なくならない以上、上手く付き合っていくしかありません。
しかしながら、付き合い方がどうも下手なかたがいます。
他人と衝突するのは仕方ありません。
自分が譲れないものがあると同等に、相手にも譲れないものがあるんです。
それが正反対だったら、衝突しないはずありません。
表面上、衝突していなくても、正反対なら裏では衝突していることもありますが、表に出ない以上、上手に折り合いをつけているんでしょう。

まったく相手の意見を無視し、屈服させようとする考え方の方がおられます。
そんな方は、ふと、立ち止まっって、周りの景色を見てください。

目は口ほどにものを言う、そんな言葉があります。

あなたが常識的に正しければ、周りの目は冷たくないでしょう。

あなたが常識的に正しくなければ、仲の好い人以外の目は非常に冷たいでしょう。

しかし、あまりに続くと、仲の好い人も徐々に離れていきます。
その人にも譲れないものがあるのに、あえて譲っているからです。
しかしいずれ、我慢の限界を越えてしまい、離れていきます。
もちろん、仲のよくない人が寄ってくるわけありません。
だって、その人はトラブルだらけだからです。
近寄りたくないですよね、仕方ありません。
近寄られたくない人に、無理矢理近づいても嫌がられるに決まっています。
お互いにとって、近づかないのがお互いの好い距離感なんです。

言葉ほど、あてにならないものはありません。
人は言葉ではどうとでも言い繕うことができますが、自分が気づかずに無意識に身体に本心が出てしまいます。
なんか伝わっていないな、なんて感じたら自分が感じた感覚を信じてみてください。
相手のちょっとした行動に答えが出ています。
その人は、あなたの意見を本心では受け入れていないんです。

どうして受け入れられないのか、考えてみてください。

どんな些細な出来事にも、意味があります。
いちいち拾っていたらキリがありません。
しかし、見逃してはいけないものを見逃すと、後で苦労をすることになってしまいます。

ヒントは沢山あるんです。
それをいかに拾い自分なりに上手く生かすか、それだけの違いなんです。

受け入れなければならないものは受け入れましょう。

違う行動をすると、違う反応が返ってきますから。

愚痴は毒となり呪詛となる

僕は愚痴を吐くを毒を吐くと同等みたいにこのこらむで書いてきましたが、どうも最近場合によってはそれ以上にヒドイ状態もあるみたいだと認識を改めました。
人間というものは基本楽をしたい生き物だと、僕の中では認識しています。
楽をしたいからどんどん技術は進化していき、その技術にあっという間に適応していき、それまでの生活水準には戻れなくなっていく、そんな生き物だと思います。
楽を覚えれば楽をしないにこしたことはない、基本そんなとこではないでしょうか。
もちろん、全てがそうだとは思いませんが、学習するという前提ですと、そうなっちゃいますよね。それを否定しちゃうとちょっと色々と困ってしまうことになっちゃいますしね。

愚痴を溜め込むのはもちろん先々のことを見越すと問題なんですが、愚痴を吐き続けるのももちろん問題です。
溜め込むと毒ですから吐かなければ体内に毒を溜め込むことになります。
その毒が溜まることにより、医学的臨床データでは異常が表れない身体の異常がいずれ表面化してきます。
データ上は異常がないからお医者さんも問題ありませんとしか答えてくれません。
ですが、実際身体の異常は症状として出ています。
あとは答えを探し求める無限ループに突入となっちゃいます。
身体の異常を直したいという目的が、信じてもらえないので、いずれ症状の答えを探すという目的に変わってしまいます。
そして長い時間をかけ、苦労して症状の正体が分かると、信じてもらえなかった分、その答えの正当性を訴えることに力を注いでしまいます。
元々は、身体の異常を直すという共通目的があったのに、いつの間にかズレが生じ、いずれ決定的な決別となってしまいます。
そんな経験を体験してしまうと、それを学習し、二度と繰り返さないと自分の中で決めます。誰だって嫌な思いなんてしたくありませんからね。これが信念というものです。
嫌な思いをしただけ、強固な信念の出来上がりです。
もちろん、悪いわけではありません。
ただ、度を越す信念もまた、いずれ問題となります。

その度を越えた信念が、愚痴どころか、毒ですら甘く、まさに呪詛とも言えるぐらいのものを周りに撒き散らす結果をもたらします。
もちろん、本人はそんな自覚はありません。
自覚があるなら、誰だってそんなことしませんよね。
自覚がないからこそ、問題なんです。
しかし本人以外の周りは、同じ感覚を味わいます。
そこまで言う、そこまでやる、と。
それは、まさに愚痴どころではなく、毒でも生易しい、まさに呪詛と表現しても過言ではないものです。
自覚がないから、他人からの指摘に力一杯抵抗します。
二度と嫌な思いをしたくないという、自己防衛に基づいた信念の結果の行動です。
それを否定されるということは、また同じ嫌な思いをしてしまうかもしれません。
ですから、本人は過剰なほど抵抗します。
そこに、周りとのズレが生じます。
親しくない人は我先にと逃げ出し、親しい人も、なんとかしたいという思いから妥協しながら付き合います。
しかし、あくまでも妥協ですからいずれ、限界がきます。
だって、毒どころか、呪詛を聞き続けるわけです。
普通に考えて、耐えられるわけないですよね。
で、いずれ距離をとります。
それは仕方ないことなんです、生物として、自分が一番なのは当然なんです。
ですが、吐き続ける本人は自覚がないから、さらに他の新たな対象を探します。

これは、程度の差はあれ、どこでも見受けらる普通の出来事です。
進化と言っていいのかどうか分かりませんが、極論で考えてみると、色々な出来事の流れが見えてきます。

ちょっと冷静に、客観的に物事を見てみると、今まで理解できないと思っていたことも案外理解できることも多いです。
これもまた、学習の一種なんですけどね。