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”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

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06月

教えたいっていう欲求

前回の更新からちょっと時間が立ちすぎていますね。
なかなか書きたいことが纏まらず、時間だけが経っちゃいました。
なんて言い訳から始めちゃいましたが、ここは反省して早速始めたいと思います。

ある本に書かれていた事なんですが、人は基本的に人に教えたいという欲求があると書かれていました。
今回は、人に教えたいという欲求について考えてみたいと思います。

では、ちょっと考えてみて下さい。

あなたが悩みの相談を受けました。その相談内容は、自分も経験した悩みの内容でした。
今のあなたは自分なりの答えを見つけて解決しています。その人はまるで過去の自分のように感じています。

どうですか?その人に自分の経験を教えたくなりませんか?

いや、そんな事ないよ、答えは自分で見つけるもんだよって人は、ある意味素晴らしいと思いますね。
正直、僕もカウンセラーになる前は自分の経験を話していました。

さて、あなたはその人に自分の経験に基づいた解決方法を話してみました。

どうでしょう、自分の経験を話して相手がそのようにしてくれない事の方が多いんではないでしょうか?
せっかく教えてあげたのに、なんだかなあって経験の方が多いのではないでしょうかね?

さて、本題に戻ります。

その人の悩みは、本当にあなたの経験した悩みと一緒だったんでしょうか?
あなたは、あなた自身の考え方に基づいて答えを導き出しました。
あなた自身の考え方は、あなたが今まで関わってきた人達からも少なからず影響を受けています。
あなた自身の考え方があるように、もちろん相手にも相手自身の考え方があります。
もちろん、相手も今まで関わってきた人達から少なからず影響を受けています。

本当に一緒なんでしょうか?あれ、そう考えれば違うかもしれないって思いませんか?

そうなんです、同じかもしれないし、違うかもしれないんですよ。

なら、なぜ、教えたくなるんでしょう?

本当に教えたいんでしょうか?なにか違う欲求もあるように思いますね。

こう僕は解決したんだよって、相手に聞いて欲しいという欲求もあるように思いますね、個人的には。

どうですか?そう考えてみると、あなたの聞いて欲しいという欲求はすでに叶えられているんですよ。

しっくりこなければ、話したいという欲求の方がしっくりするかもしれないですね。

そう考えてみれば、相手がどのように選択しようが後は相手次第なんだなって思えませんか。

あ、もちろんこの考え方もあくまでも個人的経験に基づいてますので、その点も考慮して頂ければ幸いです。

 

 

 

嫌いじゃないの、嫌なだけ

タイトル見て、いきなりなんだ~って思ったかもしれませんが、最近聞いた歌のフレーズです。
なんか僕の中ですごく気になってるようで、時々浮かんできますんで、今回取り上げたいと思います。

まず、気になったのが、"嫌い"と"嫌"を別物ととらえてるとこですかね。
同じ漢字を使ってるのに、全く意味が違うんだよっていってるんですよ。
では、どう意味が違うんでしょうか?

"嫌い"という概念は、前提に"好き"があります。つまり反対語ですね。
”好き”があるから、”嫌い”が存在する。なんか哲学的ですが、ちょうど正反対に位置してるわけです。
これは僕の感覚ですが、"好き""嫌い"ってけっこう強い感情ではないかと思います。

"あなたのことが好き"
どうですか、なんかそう言ってる表情からも"好き"という感情が伝わりませんか?
文字にしてる僕のこっぱずかしさも伝わっていただければいいんですが・・・。

"あなたのことが嫌い"
う~ん、微妙に言い方のニュアンスで違う意味になりそうですね。
でも、今回は"嫌い"って言ってると仮定すると、頑なに拒絶の感情が伝わりませんか?
ただ、日常生活を送るうえで、相手に"嫌い"と伝えるのは、それほどないとは思いますが。
もし、"そんなことないよ、いつも使ってるよ"って人はちょっと気にした方がいいかもしれませんね。
強い感情なだけに"嫌い"って伝えられた相手は多分それ以降関わりを持たないでしょうから。
余談ですが、確かに正反対の感情に位置してますので、反転する可能性はありますけどね。

余談ついでにもう一つ。
言い方のニュアンスと書きましたが、言語としてのコミュニケーションって実は実験のデータの数字で表すと、たった7%だけなんです。残りの93%は表情と音声が占めているんですよ。
なんか、人間関係のトラブルや悩みが多いのも仕方ない気がしますよね。

では、"嫌"はどうなんでしょう。
"嫌"という言葉の反対語って・・・。自信ないですが、”好い”なのかなあ。
それだと、”良い”と”悪い”になりそうだし・・・。

”あなたのことが嫌”
どうですか?なんか釈然としないのは僕だけですかね?
”どこが?”って聞きたくなりませんか?
そして、そう聞いたら答えてくれるような気になりませんか?
”あなたのこういうとこが嫌”
相手にそう言われて、本当に思い当たるなら、直したら関係がよくなる気になりませんか?

”じゃあさ、ここ直したらいいのかな?”って言えるんじゃないでしょうか。

もし、本当に思い当たらないなら、相手にそのまま伝えてみて下さい。
もしくは、相手にも同じことが当てはまると思った時には・・・。
それは、間違いなく、相手の問題です。あなたに相手が無意識に自分の問題を重ねてるだけです。
もしくは、違う相手を重ねて見ているのかもしれないですね。
どちらにしても、それはもうあなたの問題ではなく、相手の問題になります。
もちろん、解決するのは相手です。相手の問題は相手だけの問題です。
あなたは、ただ見守るだけでいいんです。

まあ、”あなたの存在自体が嫌”なんて言う相手にまで合わせる必要はないと、個人的に思いますが・・・。
関係を続けるメリットがあるとは思えないですし、魅力ある相手とは思えないですしね。

物事のとらえかた

前回、京都の伏見稲荷の"千本鳥居"と"おもかる石"について書きました。
今回、さらにその上にある、"こだま池"であった事について書きたいと思います。

先に結論から述べますと、撮っちゃったんです、心霊写真を、たぶん。

"こだま池"周辺では、写真を6枚ほど撮ったんですが、池を2枚撮ったんですよ。
で、その1枚を見たとき、"なんか もやかかってるよねえ"って話してたんです。

で、年が明けてしばらくしてから、寝る前にその時の写真を見てたんですよ。
"あれ?この写真って確かもやかかってたよな・・・"
なぜか もやが晴れていて、なにか写ってるんですよ。夜中の1時過ぎです、言い知れない不安でぞくぞくってきましたね。
"なんでこんな時間に写真見直しちゃったのかな、寝れんぞ"って思いながら、寝てました・・・。

見間違いもあるかなって考えて、一緒に見た人にも確認したら、やっぱし当時は写真にもやがかかってました。

僕は霊感というものは全くないです。でも、けっこう自分でも不思議な体験はしています。
霊感があるという人と知り合う機会もそこそこあって、その人達からいろいろな話しも聞いたりしています。
そのかいもあってか、当時から考え方のベースに、自分は見えないけど、見えるんならあるんだろうね、って素直に思えます。

そんな僕も今回、ばーんと写真として目の前に見せつけられたわけです。
今まで見たことがなかった僕は、この出来事をどのように受け止めたか?

寝ちゃったのが、そのままの答えだと、自分では思います。
そのまま、あるがままに受け入れてるから、自然に寝れちゃったんでしょうね、多分。
起こった出来事にこだわることがあると、それにとらわれて寝付けなくなるってあるんじゃないでしょうか。
もちろん、いろいろある寝付けない要因の一つだとは思いますが。

あと、僕の考え方に、幽霊って究極のクライアントなんじゃないだろうかってありますね。なにか心残りがあって、すごく苦しんでこの世に留まってるわけです。
なら、間違いなく僕の領分です。映画の”シックス・センス”が理想といっても過言ではないですね。
残念ながら、見ることはできないんですが・・・。

このように物事をとらえるって、その人の思考がすごく重要なんです。それによって、行動と感情が決まってくるんです。
ちなみに一緒にみた人は元々霊感が強くて、同じ体験をしても違う物事のとらえかたをしてました。
僕は個人的にそれぞれのとらえかたがあって、いいんじゃないかなって思います。だって、楽しくないですか、みんな違うって事を素直に受け入れるだけで、考え方が広がる気がします。
どうせなら、たくさん吸収したいですよね。

偶然ではなく必然

今回はカウンセラーの資格を取る年の年末に、京都の伏見稲荷に行った時のお話しです。
以前から一度は訪れてみたいとは思ってたんですが、なかなか機会がなく、今回が初めての訪問でした。

まずは"千本鳥居"、話しには聞いてましたが、実際目の当たりにすると、圧倒されました。
あれだけの数の鳥居をくぐるって体験は他ではできないんじゃないでしょうか。
身が引き締まるというか、なんとなく鳥居のトンネルを潜ることによって、身を清められ神様の前に行くって感覚を初めて感じましたね。あ、ちなみに僕の宗教観は日本人らしい宗教観です。そんな僕ですらって感じですね、まさに。

"千本鳥居"をくぐった後に、"おもかる石"があります。
願い事をしながら灯籠の頭の石を持ち上げ、自分の想像より重く感じると願いが叶わず、軽く感じると願いが叶うという試し石です。
これは非常に面白い考えだなと思いました。
出来事(持ち上げる行動)は誰でも同じなんですが、結果(重い、軽い)が違ってくるんですよ。

なぜ、結果が違ってくるんですかね?

それは、簡潔に定義すると、出来事と結果の間に、信念(できる、できない)があるんです。

自分は願いを叶えられるって自分を信じてる人は、体感として、軽く感じることができるんです。
自分は願いを叶えられるって自分を信じれない人は、体感として、重く感じてしまうんです。

ちなみに僕はどう感じたかというと、めっちゃ軽く感じましたよ、いや、マジで。

この”おもかる石”は他にも色々な考え方を含んでいて、非常に興味深いですね。

今まで来たくても縁がなく、この年に初めて訪れたって事になんとなくですが、
”世の中に偶然はなく全て必然である”って気がしました。

ちなみに、ここではもう一つ不思議な体験をしたので、次回にその事について書いてみたいと思います。