free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

愛知県一宮市今伊勢町新神戸
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01月

物をためこみ片付けぬ母

今回も、ねえねえちょっとに掲載された相談について考えてみます。
どうぞお付き合い下さい。

相談内容は、この方のお母さんが、人がいらないというものをとにかくなんでももらってきて、家の中が物であふれてしまっているとのことです。
もらってくるものは、サイズの合わない服、自転車、棚、雑誌など色々のようです。
この方は、実家の近くに住んでいるので、何度か掃除や片付けもしているのですが、お母さんは不機嫌になってしまうみたいです。
お母さんを変えるのは難しいと思っていて、気にしなければ楽なのに、そう簡単ではないとのことです。
どうすればいいのか、何かできることはないのか、と悩んでいるとのことです。

これは本当にお困りですよね。
このまま続くと、現実問題、人が住む事が出来ない家になってしまいますよね。
最悪、あまりいい言葉ではないですが、ゴミ屋敷みたいになってしまう恐れもあります。
その心配もされているのではないでしょうか?
どうすればいいのか、途方にくれちゃいますよね。

さて、それでは考えてみましょう。
まず、気にしなければ楽との事ですが、現実的な問題があるので、気にしないという方法は出来ないのではないでしょうか。
このまま続くと、間違いなく近所の人達との問題になって、娘であるあなたに飛び火するのは間違いありません。
それがあるから、簡単ではないのではないですかね。
ですから、まずは自分のためにも、お母さんに働きかけるのがいいのではないでしょうか。
自分がいかに困っているか、このまま続けられるといかに大変な事になるか、話し合ってみてはどうでしょうか?
それで自分がいかに迷惑をかけているか気づいてもらえればいいのですが、止めない可能性もありますよね。
その時は、お母さんは他人とのコミュニケーションの手段として、物をもらってる可能性もあるかもしれません。
いらないものをもらってもらうと、その人に感謝の言葉を言いますよね。その言葉を聞きたい為になんでも引き受けてしまうのかもしれません。
ですから、言葉さえもらえれば後は必要ないので、片付ける事はしないのかもしれません。
もらうという行為自体を自分でも止める事が出来なくなってるのかもしれません。
こちらですと、ちょっと時間かかるかもしれません。

あとは、そのお母さんの行為を仕入れと考えるのもいいかもしれませんね。
自分たちがいらなくても、他の人にとっては欲しいものもあるかもしれませんので、例えばバザーとかフリマに出店してみるとかすると、案外いいかもしれません。
困った行為がいい行為に見えるかもしれませんよ。

相手を変える事は出来ません。
こちらから働きかける事によって、相手が勝手に変わるんです。
色々と働きかけてみて下さい。お母さんは変わると思いますよ。

同居の気ままな義母に困る

今回も ねえねえちょっと に掲載された相談を考えてみたいと思います。
お付き合い下さい。

内容は、ご主人と幼い息子さんと、義母との四人暮らしの方からの相談です。
義母は気ままに暮らしてきたようで、ご夫婦で使おうと買った"めおと茶わん"も、構わずに自由に使ってしまうみたいですね。
この方がつわりで気分が悪く、夕食の準備を頼んだら、"ばあちゃん、何もいらない"と言うとの事です。
協力してもらうには、どうしたらいいか、という相談内容です。

なるほど、気ままに暮らしてきた義母との関係で悩んでいるようですね。
せっかく使おうと買った”めおと茶わん”も使われちゃうと、あまりいい気分ではないですよね。
どうなんでしょう、自由に使われるのが嫌なんでしょうか、なら、自由に使われなければいいんでしょうかね。
例えば、家族一人一人食器を決めておけば使われる事もないのではないでしょうか。
予め決めておいても、構わずに使ってしまう、そんな事もあるかもしれませんね。
それなら、使われて嫌なものは、使われる前に使ってしまえば嫌な思いをすることもないですよね。
食事の用意が出来たら、自分で配膳すれば問題自体がなくなるのではないでしょうか。

食事の準備を協力してもらうには、どうしたらいいんでしょうかね。
頼むと、”ばあちゃん、何もいらない”と義母は言うんですよね。
まるで、子供が言ってるように感じませんか。
なら、子供にお手伝いを頼むようにしてみたらどうでしょう。
最初は、こちらからの協力してほしいという欲求を満たそうとするわけです。
ですから、まずば下手にお願いしてみて、仕方ないなと思ってもらうように仕向けるんです。
難しいかもしれませんが、やってもらえれば、まずは成功です。
後は、最後に、手伝ってもらった感謝の言葉と褒めるという行為が大事だと思います。
いくつになっても人から褒められると嬉しいものです。それを何度も繰り返すと、ひょっとかしたら、手伝うのが習慣となるかもしれませんよ。

一般常識の重要性~あるニュース記事を見て~

一昨日、あるネットニュースを見て、今までと対応が違っていたので、違和感を感じていたんですが、昨日の朝その記事のその後を見て、やっぱりなと納得しました。
どのようなニュースかというと、あるお笑い芸人がしてしまったニュース記事です。
一昨日の記事の内容では、この芸人のマネージャーがマネージャー自身で判断して問題に対応する、となっていました。
今までのこの会社の対応と違っていたので、おやっと違和感を感じていました。
昨日の朝、この記事の続きを見ると、この芸人の自作自演だったとのことでした。
会社から怒られ、当のマネージャーからはクレームの電話が鳴りやまず、本当の事を書いたとの事でした。

確かに、事情を見ると、かなりしんどい思いをしながらそれを続けてるみたいでした。
事情は分かりますが、だからといって取った問題対策がまずかったですよね。
タレントを守るのもマネージャーの仕事かもしれません。
でも、その行為によって、相手はクレームの電話をかけ続けてるわけです。
笑いをとるために、やってみたのかもしれません。
それなら、笑いの専門である会社が怒るわけありませんよね。
明らかに、笑いという仕事を逸脱してしまった行為をしてしまったんです。

人によって常識って違うと思います。
ですから、一般常識って、非常に重要になると思います。
今回のニュースでは、少なくとも、他人に迷惑をかけてしまっているんですよね。
自分も迷惑を被っている、その通りだと思います。
だからといって、自分を守る為に、他人に迷惑をかけるなら、その人達と一緒ですよね。
今まで耐えてただけ、限界を越えた行為って、過剰になってしまうんです。

ここでもうひとつ、大事な一般常識があるんです。
こちらは、非常に簡単なことです。
"相手が悪いことをしたら、怒る(叱る)"です。
分からないから、悪いことをしてるかもしれません。
だから、分かりやすく、怒って(叱って)教えるんです。相手に伝わるようにです。
ですから、この芸人は、すぐ反省できたと思います。
多分、同じことは二度としないのではないかと思います。

簡単な事程、難しいですよね。
難しいですけど、その後を考えたら、やりたいですよね。

手のかかる子、手のかからない子

よく言われる事で、手のかかる子ほどかわいいって言葉ありますよね。
僕もよくその事を昔から考えた事がありました。
僕の場合は、手のかかる子が羨ましいっていう感情がありましたね。
自分的には、手のかからない子だったと思っていましたから、手のかかる子が大人に手を差し伸べてもらうのを見て、またかとあきれる反面、羨ましいとかいいなあとか妬む気持ちがかなりありましたね。
手のかかる子、出来ない子、甘え上手な子、となるんでしょうか、この場合。
実際、可愛がられるんですよね、そういう子たちって。
だからと言って、自分がそうなりたいと思っても、弱音を吐けないんですよね。
自分が出来ないから、出来る相手が羨ましい、妬ましいという複雑な感情を抱いていたと思います。
でも、実は違っていたんですよね。

では、何が違っていたんでしょうか?
僕が手のかからない子だったというとこだったんでしょうか?(ちょっと書いてて不安に思いましたんで、親に確認しました、自覚通りちゃんと手のかからない子だったようです)。

さて、気を取り直してもう一度、何が違っていたんでしょうか?
手のかかる子も、手のかからない子も、子供らしく素直であればそれでいい、のではないでしょうか。
つまり、二つに無理に分ける事自体、違ってるのではないですかね。
手のかかる子はいつもどんな時も、手のかかる子なんでしょうか?
手のかからない子はいつもどんな時も、手のかからない子なんでしょうか?
そんな事ないですよね、もしそんな事があるとしたら、
手のかかり過ぎる子、手のかからなさ過ぎる子、となりますよね。
僕ほどうも、手のかからなさ過ぎた子だったんではないか、と思います。だから、当時、複雑な感情を抱いていたのではないかなと思います。素直に感情を出す事を自分でしないようにしていた、自分の気持ちに嘘をついてた、と思います。
だから、素直に感情を出せる子が疎ましくもあり、羨ましく妬ましいと思っていたんでしょうね。

ただ、ここで大事なのは、子供でも、自分で選択している、という事実なんです。
僕の場合を例に出しましたが、子供の時の僕であれ、僕が選択しているんです。
ここって、難しいとこなんですが、親の責任ではないんですよ。自分の責任なんです。
それを選択したのは親ではなく、自分だから、です。
責任を取るって、嫌ですよね。だから誰かの責任にしたいんです。だから、親の責任にしたいんです。
誰かのせいにしたら、楽ですよね。楽なんですけど、それだけなんです。
もし、問題だと思ってたとしたら、その問題は解決しないのではないかなと思います。
あくまでも、大人になって、問題だと思った場合の話しですが・・・。

さて、もう一つ。
物事は、可もなく不可もなく、です。
過剰過ぎるのも、過小すぎるのも、なく、です。
過剰過ぎるなと思うなら、過小にして、
過小すぎるなと思うなら、過剰にして、適切に、です。

 

 

兄が毎日夕飯に来る

今回も ねえねえちょっと に掲載された悩みについて考えてみたいと思います。
お付き合い下さい。

今回の内容は、別居中のお兄さんが四ヶ月前からお金に困り、毎日夕食を食べに来てる状況のようです。
この方は、両親と三人暮らしで、食事の支度はこの方がされてるようです。
更年期の症状と戦いながら大食いのお兄さんの食事に悩んでいるんですが、お兄さんは感謝の言葉もなく、横柄な態度をとり、やりきれず時に涙し、両親は見て見ぬふりをして、お兄さんを毎日家に呼ぶみたいです。
いつまで続くのか、つらい毎日を送ってるとのことです。

なるほど、ただでさえ更年期症状で苦しいのに、感謝の言葉もないとやりきれない気持ちになっちゃいますよね。
そんな状況なのに、一緒に暮らしている両親が見て見ぬふりをしてると感じてたら、余計つらいですよね。
ましてやそれがいつまで続くか分からないとなると、つらい毎日になっちゃいますね。
それでは、どうしたらいいんでしょう。

まずは感謝の言葉をもらうためには、どんな状況なのか、相手に理解してもらわないともらえないのではないでしょうか。
自分がこれだけ苦しんで食事の用意してるんだよ、と言葉で伝えてみてはどうでしょうか?
あなたが更年期の症状と戦いながら食事の用意をしてる事実を、お兄さんは気づいていないのではないですかね。
察するって、案外難しいものではないのかなって僕は思います。
自分の事を察してほしいという思いがある以上、相手にも同じように察してほしいという思いがあるからです。
それが満たされないなって感じたなら、状況を伝えるしかないですよね。
そうして、始めて状況は動き出すのではないでしょうか。
同じことは両親にも当てはまると思います。
見て見ぬふりとのことですが、両親があなたがつらい毎日を送っているのに気付いていないだけかもしれません。
言葉で伝えることによって、状況は動きだし、変化が起こると思います。
その変化によって、多分今の状況よりは少なくともいい状況になると思います。
その変化の中に、気分転換も時々入れる、もいいと思いますよ。

”心が折れる”についてちょっと考えてみる

よく表現方法で、”心が折れる”って見かけますよね。
今まであまり気にしていなかったし、僕も”心”を扱うプロの端くれですから、今まで使っていなかったのかと言われれば自信ないですが、ちょっとこの”心が折れる”という表現を考えてみたいと思います。

”自由なこころの空間”をうたい文句にしてる僕が言うのもなんですが、”心”って目に見える形としては存在してはいないですよね。
目に見える形として存在してはいないけど、確かにそこにあるだろうっていう感覚はありますが、抽象的な概念でしかない、ですよね。
それでは、その目に見えない、存在しない抽象的な概念の”心”って、”折れる”もの、なんでしょうか?

だからと言っても、確かに、”はあ~、心折れそうだわ”なんて言われると、違和感なく本当に辛そうだなって伝わりますよね。
そうなんです、伝わっちゃうんですよ。ですから表現としては本当に素晴らしいんですよね。
でも、逆に言うなら、伝わっちゃうからこそ、問題を複雑にしちゃうのではないかな、って気がします。

それでは、一体どんな時に、”心が折れる”って表現するんでしょう?
どうなんでしょう、辛い状況に身を置いていて、ギリギリ耐えている時は”心が折れそう”で、もう無理って時に、”心が折れる”になるんでしょうか。
ギリギリ耐える時って、どうしたら耐えられるんでしょう。頑張って耐えてる、のではないでしょうか?
頑張って頑張って耐えようとして、頑張り過ぎて疲れ果て、もう無理ってなって、”心が折れる”となってしまう・・・。うーん、書いていても辛いですねえ。

頑張って耐えるって、元々無理がありますよね。堪え切れたとしても、疲れ果てちゃいますよね。
ですから、頑張って耐える時点で、ひょっとかしたら、そのもの自体(こだわりとでもしときましょうか)、間違っている可能性もあるかもしれません。
そんな時、ちょっとだけ自分の周りを見て下さい。
周りの人も条件は同じなのに、そんな状況になっているのは、自分だけって事はないでしょうか?
となると、一体何が違うんでしょうか?
頑張らないと耐えられない自分のこだわりが、自分自身を苦しめている、という事はないんですかね。

”心が折れそう”ではなく、”こだわりが折れそう”
”心が折れる”ではなく、”こだわりが折れる”

これならなんとかなりそうな気になりませんか?
これならなんとかできそうな気になりませんか?
これならなんとかしてみようという気になりませんか?

そんな風に感じて頂ければ幸いです。

男性役員の誘い断るには

さて、今回も紙面に掲載された悩み事を考えてみたいと思います。お付き合い下さい。

内容は、子ども会の役員をされてる方で、会議後の飲み会などに出ていたら、他地区の男性役員に食事に誘われたり、旅行の土産を頂いたりするようになったみたいですね。
いつもごちそうしてくれるので出掛けていましたが、トラブルになっては困るので、これ以上の付き合いは避けたいと思ってるみたいです。
ただ、今さらどう断ればいいのか分からず、困ってる、とのことです。

なるほど、なかなか難しいですね。
実際に断わる方法は、簡単だと思います。
誘われた時に、ちょっと用事が、とか今はちょっと忙しくて時間を取れないとか、理由は作れば色々あると思います。
いつも出掛けていた、との事ですので、相手も付き合いがいいので、誘うのでしょう。
単純に、付き合いが悪くなれば、誘わなくなると思います。
誘っていい返事がこないとなると、新しい付き合いがいい人を探すでしょうから。
そうしたら、これ以上の付き合いの心配も、トラブルも起こらないでしょうから、目的は達成するのではないでしょうか。

ただ、それができない、もしくはしたくない、という思いもあるような気がしますね。
例えば、付き合いが悪い人だと思われたくない、とか。
それなら、ごちそうされなければいいのではないでしょうか。
自分の分は、自分で出す、自分の付き合いも自分で選択する、お金を出すだけの付き合いの価値が自分にとってあるのかどうかの判断基準になると思います。
出してもらえるから行くですから、出してもらえないと行かない、となるような気がしますが、どうなんでしょうね。

新年のご挨拶と昨年末の出来事

新年明けましておめでとうございます。
昨年は皆様にとって、どんな一年だったんでしょう?
僕にとっての一年は、本当に有り難い一年だったと、素直に思える一年でした。
自分がやりたかった事を、色々な人の意見を参考にして、自分なりに”形”として表現する事が出来て、そして反応してもらえました。これ程、充実感を実感した一年は今までなかったと思います。
これからも、色々と取り入れていこうと考えています。
今後とも、free mental place 航 どうぞよろしくお願い致します。

さて、新年の挨拶を済ました後に、昨年末の話しをするのもなんですが、少しだけお付き合い下さい。
9月に僕自身がある決断をして、行動した結果、どのような事が自分に起こったかを、この 航のこらむ の中の”夢の検証”の中で少しだけ触れさせてもらいました。
結論から先に述べますと、十数年来の僕自身のわだかまりが、昨年末に本当の意味で解消されました。

もちろん、プロですので、自分自身の問題は既に解決済みです。
自分自身の問題に向き合って、何かしらの答えを出していなければ、カウンセリングという仕事はしてはいけないのではないかな、と僕は個人的には思っています。最低限、資格をとってですよ、もちろん。
ですので、自分自身としては、問題は解決済みだったわけです。
では、どうゆう事?と思いますよね。

僕は決断だけでなく、行動もしていましたので、自分に変化が起こったと、以前も書かせてもらいました。
行動した結果って、自分だけが受けるものなのでしょうか?
違いますよね、対象相手がいるからこそ、ある行動をするものですよね。
ですから、その行動って、その相手にも影響を与えてるわけです。
もちろん、その相手が行動してくれましたので、本当の意味の解消に結びついたと思います。
詳しくは書きませんが、こんな風になるなんて、想像もできませんでした。もちろん、とてもいい意味で、です。
僕一人だけなら、多分たどり着けなかった答えだと、今も思っています。

もちろん、これで終わりではありません。
ここからまた、新たな関係性が出来て、そして繋がっていくのではないでしょうか。
その為に、また行動する、の繰り返しをするわけです。
どんな答えになるか分からないからこそ、行動出来るのかもしれませんね。

世の中に正しい答えなんてない、と僕は思っています。
自分にとっての、正しい答えを見つけていくものではないでしょうか。
ですから、間違いもするわけです。間違いをしたから、終わりではないんです。
今は、自分にとっての、正しい答えにたどり着いていないだけ、なんです。
そして、やっとたどり着いたとしても、それがゴールではないんです。
今の自分にとっての、ゴール、でしかないのではないでしょうか。
多分、その先も続いていくんでしょうね、僕の場合のように・・・。
なんか、途方もない道のりですよね。
途方もない道のりだからこそ、時々、遠回り、道草、休憩、しちゃうんです。
途方もない道のりだからこそ、そんな時間を必要とするんでしょうね。
途方もない道のりだからこそ、あせらずに、です。