free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

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2014年

日頃から会う人は大事、たまに会う人はもっと大事

四年に一度の頻度で行われる中学時代のクラス会に参加しています。
中学を卒業してから十年後にクラス会を開き、それから四年毎に開かれ、今年がその年でした。

クラス会って、続いていますか?
ちなみに続いているクラス会って、僕の場合はこの中学時代のクラス会だけです。
それ以外は一回だけで終わってしまっています。
もし、続いているクラス会があるなら、是非参加してみて下さい。
ひょっとかすると、非常に貴重な体験が出来るかもしれません。
僕も今回もですが、貴重な気づきを得る機会に恵まれました。

どんな貴重な体験をしたかというと、八年前の自分と出会う事ができたんです。
といっても、厳密にいうと、すっかり忘れていた八年前の自分を思い出させてもらった、となりますね。

前回、参加できなかったクラスメートが、八年ぶりに参加して、八年前と僕が全然違うと指摘してくれたんです。
四年前に参加した時は、本格的にカウンセラーの資格を取る為に学校に通い出す頃でした。
さらにその四年前となると、確かにプライベートでもゴタゴタがあって、けっこう悩んでいた事がありました。
四年ぶりにクラスメートに会うわけですから、近況報告も兼ねて、普段から会う友人達と違って色々話すわけです。
ですから、当時けっこう詳しく話したんでしょうね。
ですが、八年の年月は僕にとっては悩みの解決のスパンとしては長すぎるんでしょうね。
”そんな事あったっけ”って感じで、すっかり忘れてしまっていました。

不思議に思うかもしれませんが、悩みが解決する時って、大抵こんなものです。
悩んでいる時も時間は流れているのですが、自分の中の時間は止まってしまっているんです。
ですから、ずーっと同じ問題が続いていってしまうんです。
もう少し補足すると、ずーっと同じ問題を続けていこうとするんです。
ですが、その問題をしっかりと自分の中で消化して解決すると、自分の中で止まっていた時間も同時に動き出します。
自分で止めていた時間を動かすようになるんです。
時間が流れると、周りの環境の変化にも柔軟に対応できます。
物事が変化していくんです。
少しずつの変化ですが、時間と共に積み重なり、いずれ大きな変化になります。
変化の渦中にいる本人は、あまり意識しません。
意識する必要性がないからです。
そして、周りと合わせられる日常が積み重なっていきます。
今まで出来なかった事が、当たり前の日常となっていくんです。

では、たまにしか会わない人にしてみるとどう感じるんでしょうか?
その人にとっては、当時会った時の印象しかありません。
そこから変化しようがないんです。
つまり、今回のケースでいくと、八年前で止まってしまっているんです。
僕が言うのもなんですが、それは確かに劇的な変化に感じるんでしょうね。
八年前との違いを指摘したくなっちゃうわけです。

もちろん、いい変化もあれば、悪い変化もあります。
どちらも、たまに会う人の方が気づくものです。
自分を見直すきっかけになるかもしれませんよ。

会話をして下さい

今回のコラムは、個人的なメッセージとして書かしてもらいます。

会話をする、コミュニケーションを取るという重要性というのは、当たり前だと思いますよね。
社会生活を送る上で、そんなの当たり前だよと思う時は、全く問題ない時です。
そんな時は、何も問題も負担もなく、愚痴とか不満を知ってか知らずか話しているものなんです。
それか、自分自身で問題を解決できている時なんです。
セルフケアというのが理想的ですからね。
自然治癒と言い換えてもいいかもしれません。
そんなスキルというのは、誰もが知らずに身につけているものなんです。

相手に気を使う、相手に対して話すと申し訳ないと思ってしまう、相手に負担を掛けたくない、心配させたくない、そんな時にこそ、そう自分が思える相手と会話をして下さい。
自分がどれだけ辛い思いをしているのか、自分だけで抱えこまないで下さい。
そう思う今の状況は、今のあなたの自然治癒能力をオーバーしているのかもしれません。
オーバーしてるゆえに、そんな自分を守るべき相手に見せたくないと思ってしまうものなんです。

とは言っても、自分の弱い部分を見せるというのは難しいものだと思います。
自分が守らなければならないと思っている相手なら尚更です。

難しいんですが、隠される方が相手にとっては負担に思う事も多々あります。
同じ生活を送っているなら、ほんのちょっとの生活のパターンの違いも気付くものではないでしょうか。
あれ、ちょっとおかしいなって思う時はあるものです。
いつもと違うぞ、気付くんですが、相手もまた、気を使って話さないんです。
指摘したら悪いなあなんて思ってしまのかもしれません。

これって、十分相手に負担を掛けてますよね。
少なくとも、守るべき相手に気を使わしてしまっているんです。

どうせ負担を掛けるなら、オープンにして負担を分かち合うようにしませんか?
あなたが守らなければならないと思える相手なら、その思いは通じるのではないでしょうか。
なぜなら、あなた自身が選んだ相手です。
なら、答えてくれるのではないでしょうか。
あなた一人では今の状況を解決するのは難しいかもしれません。
今までの問題を解決してきたスキルでは太刀打ちできない状況かもしれませんが、協力しあえば乗り越える事ができるかもしれません。

そういえばあの時、後で思い返すセリフ程、辛い思いをさせるものはありません。
辛い思いをさせたいんでしょうか?

辛い思いをさせたくないからこそ、自分が頑張るしかない、
それが全う出来るなら、全く問題はないです。
出来ない時こそ、出来なくなりそうだと思う時こそ、
会話をしてみて下さい。
最初のとっかかりだけが問題なんです。
とっかかりさえ乗り切れば、思いを吐き出せるはずです。

たった一歩なんですが、とてつもない一歩かもしれません。
踏み出しましょう、一歩を。
後は自然と流れていくものです。

なんて、偉そうにコラム書いてますが、
商売道具の名刺入れを飲み屋に忘れてきてしまいました。
僕もまた、反省しなければならないですね・・・。

 

 

世の中は"期待"にあふれている

個人的な事なんですが、最近ある出来事を知らされ、その内容に思わずがっかりしてしまいました。
どのような内容かは省かさせてもらいますが、僕にとっては残念に感じた出来事でしたね。

事実としての出来事は一つだけなんですが、個人個人によってその出来事の捉え方は違ってきます。
僕にとっては、その出来事に対してがっかり感が多きかったわけです。
どうしてがっかり感を感じたのか、それはそんな事はしないだろうという勝手な期待を相手にしていたんですね。
その期待を裏切られたように感じて、がっかりしちゃったわけです。
相手にとっては、自分の知らない所で勝手に期待されても、そんなの知らないよって言いたくなりますよね。
ちなみに、その場で僕と同じようにその出来事を聞いた人達もまた、それぞれ違った捉え方をしていました。

大事なのは、出来事に対してどう自分が感じようが、それはあくまでも自分個人の問題なんだと自覚する事です。
そして、自分が感じた事を相手に伝えるかどうかもまた、自分で選択できるということです。
伝えるのがいいのか、伝えないのがいいのか、自由に決めていいんです。
ちなみに今回の僕の選択は、相手に伝えない事を選びました。
なぜなら、自分の勝手な期待と気づいたからですね。
そして、その選択に対して、全く違和感を感じなかったからです。
もし、その自分の決定に違和感を感じるようなら、もう一度考えてみた方がいいかもしれません。
その違和感が"しこり"として自分の中に残ってしまうかもしれないからです。
"しこり"というのはやっかいなもので、相手との関係も変わってしまう事にもなりかねません。
それも一方的にですから、相手にとってはたまったものではありませんよね。

相手に対して怒るというのもまた、一因として期待を裏切られたという思いがあります。
怒って相手に伝え、自分の期待に沿うようにするんですね。
でも、怒るという感情は強い感情ですので、制御が効かなくなってしまう事があります。
あちゃあ、言い過ぎたなあと後で後悔してしまうんですね。
そして感情を出しすぎた分、不自然な程、まるで取り繕うような行動に出てしまいます。
優しくなりすぎたり、しゃべりすぎたり自分なりにバランスを取ろうとするんです。
周りに同意を求めたり、自分の怒りを正当化しようとしたりもします。
自分ではバランスを取ってるつもりですが、そんな時は大抵、アンバランスに周りは感じます。
言い過ぎたなと自分が感じたなら、感じた通りに素直に相手に謝るのが一番です。
言い訳をするなって、相手に言いたくなる時ってありますよね。
それと同じです。
自分に対して言い訳をしちゃってるんです。

事態が一向に改善されないなって思ってるなら、そんな時は相手に対する評価を見直すいい機会かもしれません。
過小評価しているのか、過大評価しているのか、相手の評価を決めるのもまた、他の誰でもない自分です。
過大な期待というのは、どちらにとってもあまりいい結果にならない事が多いです。
お互いが被害者と思ってしまうんですね。
世の中は"期待"にあふれています。
自分が出来る事、出来ない事、
相手が出来る事、出来ない事、
見極めるのもまた、自分だけです。

"変わりたい"

"こんな自分は嫌だ"
"変わりたい"
この仕事をするようになって、本当によく聞く言葉だと、改めて思います。
そのように思う事って、誰でも一度はあるか、あったんではないでしょうか?

ふと、自分に当てはめて考えてみると、僕にもはっきりと思い当たる出来事はありますね。
高校までの自分が思う自分って、けっこう人見知りで、言いたい事も言えない自分だったと思います。
自分で言うのなんですが、シャイボーイってんですかね。
それが大学に入って、結構の頻度でバイトに入るようになって、学校以外の人と知り合う機会が一気に広がりました。
そのバイト先の先輩で、人見知りとは無縁に見える先輩がいました。

"羨ましい"
"こんな風になりたい"
"あ、ここまで言っても大丈夫なんだ"

そう思った事を思い出します。
当時、その人のように振る舞ってみようと考え、行動を真似してみました。

結果、どうなったかというと、自分的には積極的になったと思います。
真似した当初はやり過ぎかなって自分でも思うぐらいの行動でした。
厚かましいってんですかね。
でも、時間が経つにつれ、上手くバランスが取れたと思います。

何かが変わる時には、足りなかった分だけ、反対方向に向いてしまうものだと思います。
今までの反動なのかもしれませんね。
しかし、それも最初だけです。
最初だけ乗りきれば、自ずとバランスを自分なりに取るものです。
折り合い地点を見極める、そんな感じですね。

さて、それでは今現在の自分はどうかなと、改めて考えてみると、更に変わっていると思います。
自分にとって、まずはそれを第一に考えて行動していますね。
もし、また不都合が出てくるようなら、変えるでしょう。
今のところ、その必要性はないですけどね。

ちょっと長くなってしまいましたが、"変わりたい"という思いには必ず比較対象があります。
僕の場合だと、知り合った先輩になりますね。
何かと比べるから、今の自分に満足できなくなってしまうんです。
現状に満足しているなら、そんな事は起きません。
"変わりたい"という思いは、周りからではなく、自分の中から出てくるものなんです。
自分の中から出てこなければ、"変わりたい"という思いを達成するのは難しいかもしれませんね。
周りがどのように思おうが、自分が必要ないと思うと、"変えない"、となってしまいます。
言い訳を探す、何かのせいにする、事実を歪曲してみる、正当化する、等々、
"変えない"という事に、必死にしがみつこうとしてしまいます。
周りとズレが大きければ大きい程、"変えない"為に使うエネルギーは莫大になっているでしょう。
"変えない"のは、下手すると、"変わる"以上のエネルギーを使っている場合もあります。
何もしていないはずなのに、疲れているという時は、何もしていないのではありません。
"変えない"という、その場で止まるという為に、エネルギーを使ってしまっているんです。
流れに逆らうのにエネルギーを消耗するって、もったいないですよね。

どうせ同じエネルギーを使うなら、自分が"変わりたい"という変化に使いたいですよね。
必ず、その思いが出てきたきっかけになる出来事があったはずです。
その出来事をもう一度思い出して、どんな自分になりたいのか、はっきりと目的を持って取り組んでみる。
最初は疲れるかもしれません。
でも、流れにさえ乗ってしまえば、案外とするするとなっちゃうものです。

流れに乗るのも自分、流れに逆らうのも自分、ただ、それだけなんです。
"変わりたい"と思ったのも自分、"変えない"と思ったのも自分。
どうせなら、変化が起ころうとしているのを、大事にしてみませんか。

"ありがとう"言っていますか?

最近、ある機会があって、"ありがとう"という言葉をかけてもらう事が多くなりました。
といっても、もちろんこちらから働きかけているので、返事として返ってくるものです。
ですが、だからといってです。
やはり、"ありがとう"と、相手から感謝の言葉をもらうというのは、素直に嬉しいと思うものですね。

当たり前の事なんですが、当たり前と思わず、"ありがとう"と感謝の言葉を返す。
当たり前の事なんですが、当たり前と思わず、"ありがとう"という感謝の言葉を素直に受け入れる。

些細な事で、忘れがちになってしまう事なんですが、ほんのちょっとの事で上手くいく事もあるかもしれません。

"ありがとう"、言ってみませんか?
なにかしらの反応はありますよ。

フィギアスケートの中継を見て

最近、少しだけ生活スタイルが変わりまして、テレビを見る時間が増えました。
以前は、全くと言っていい程、テレビを見ない生活パターンでしたね。
で、フィギアの試合をテレビで見ていました。

見られていた方は、本当にビックリしたんではないでしょうか?
僕も他事をしながらテレビを見ていたんですが、思わずテレビに釘付けになってしまいました。
羽生選手と中国の選手が、試合前の公式練習で衝突してしまったんです。
激突といってもいいかもしれません。しばらくの間、起き上がることが出来ない羽生選手の状態が衝突の激しさを表していました。

テレビでも言っていましたが、公式練習の6分間の間に、希に今回のような選手同士の衝突はあるみたいですね。
ただ、今回のケースは今までと違っていたみたいです。

今までの選手は、試合を棄権していたそうです。
それはそうですよね、今から試合というのに、怪我をしたわけですから。
事実、羽生選手と衝突した中国の選手も、最初は棄権と出ていました。
それほど、フィギアスケートという競技は激しいスポーツなんでしょう。

ところが、再開された公式練習に、当の羽生選手が出てきたんです。
今までとは違うケースです。
もちろん、そんな激しい衝突の後ですので、それ相応の滑りしか出来ていませんでした。
でも、滑り終え、支えられながら、フラフラの状態で控え室に戻っていきました。
もちろん、試合に出るためにです。

試合が始まり、羽生選手の出番かと思いきや、棄権したはずの中国の選手がリンクに出てきました。
公式練習もせず、棄権と出ていたんですが、試合に出場するとのことです。
とても試合が出来る状態ではなかったんでしょうね、見ていて痛々しい状態でした。
今まで知らなかったんですが、回転技の着氷にかかる衝撃って、体重の三倍だそうです。
それは飛べるわけないですよね。
最初は棄権を受け入れ、直前の練習もしない状態で試合に出場したので、仕方ない結果だったのではないでしょうか。

羽生選手の演技が始まりました。
あんな衝突の後の演技です。
何回も転倒しましたが、鬼気迫る演技で、圧倒されました。
体ももちろん、精魂も使い果たした状態だったんでしょうね。
演技が終わった後、支えてもらってもまともに歩けない状態でした。

結果は二位でした。
あの状態であれだけの演技をするなんて、本当に凄いと素直に思いました。

さて、長くなっちゃいましたが、ここからが本題です。
今までと同じ事(衝突)が起こったのに、結果(出場)が違いました。
それだけではなく、それに相応しい結果(二位)もついてきました。
何が違ったんでしょう。

もちろん、人が違うから選択も違うというのは、至極当たり前です。
では、羽生選手と今までの選手とは、何が違っていたんでしょう。

おそらく、思考が違っていたのではないでしょうか。
その思考も、かなり強固な思考です。
強固な思考であるがゆえに、二位という相応しい結果もついてきました。
強固過ぎる思考といっても、ひょっとかしたら過言ではないかもしれません。
そうでなければ、今までと同じ棄権というケースになっていたと思います。
例え出場したとしても、その状況に相応しい結果になっていたでしょう。
中国の選手がそうであったように。

これは、どちらがいいか悪いかではありません。
どちらでもいいんです。
どちらでもいいんですが、ただ、強固な思考というのは、少なからず周りに影響力を与えます。
現に、賛否両論になっています。
ですが、それはあくまでも、周りの評価です。
本人にとっては、自分の目的の為に行動しただけなんです。
例え後悔する結果になったとしても、納得できているならそれでOKなんです。

願わくば、一日も早く怪我を直して、また素晴らしい演技を見せてもらいたいものです。

去らない嵐はない

今年は少しばかり例年と違い、異常気象が多いですね。
今月も二週に渡り、同じような進路で日本列島を台風が通過していきました。
各地に甚大な被害をもたらしながら、台風は去っていきます。
当たり前の事ですが、その場に留まったまま、そんな状態は続かないんです。
必ず、通過していくんです。

人間関係のトラブルもまた、ある意味、台風に似ているともいえます。
何も問題がない時は、穏やかな過ごしやすいいい天気です。
しかし、一旦問題だと思うと、穏やかな天気が大荒れな天気となります。
大荒れにふさわしく、感情も激しく揺れ動いています。
台風の発生です。
では、この台風は、一体どこで発生しているんでしょうか?

それは、自分自身の思考、感情から発生しているんです。

確かに、周りの環境もあるかもしれません。
例えば、誰々のせいで等々、言いたくなる時もありますよね。
でも、その誰々が元凶なら、周り全部被害を受けるはずなんです。
ないとは言いませんが、周り全部が被害を受ける状況というのはあまりないのではないでしょうか。
なら、周りとの温度差が発生する、それはどこで発生しているのでしょうか。
そうです、自分の中で、台風が発達しているんです。
自分の中でしか、台風は発生していないので、周りとの温度差に余計イライラしてしまうんです。

実は、誰々のせいで等々の後に、温度差の違いが出てくるんです。
自分自身の内面にちょっとだけ目を向けてください。
どう感じたのか、どうしてそう感じるのか、なんとなくですが、思い当たる事があるのではないでしょうか。
思い当たるなら、それが台風の発生源です。
例えば、誰々の~が許せなくて腹が立つ等々、色々あるとは思います。
誰々の~が、あなたは許せないんですが、周りは別に気に留めるほどの事ではない、ただそれだけなんです。
それは、温度差が出てしまいますよね。
そんな時は、今一度、自分の内面と向き合ってみてください。
温度差が発生した原因=台風の発生源である、あなた自身の思考です。
もう一度見直してみると、ちょっと偏りがあるのかもしれません。
偏りを修正してみると、台風は去っていきます。
当然ですよね、元々、その偏りが発生源だったわけです。
台風そのものを生み出していたのも、自分だったからです。

さて、それでは、誰々が本当に原因の時はどうなるんでしょう?
どれだけ強い勢力を持った台風も、やがて自然に消滅していきます。
同様、自然とまではいかないですが、改善がなければ、いずれ去っていくことになるでしょう。
冷静に、自分の立場を判断するのは難しいと思いますが、もし、その立場に自分が立ってる場合はどうしたらいいんでしょう?
その時は、必ず改善して欲しい要求をされているはずです。
今一度、その要求を冷静に見直してみてください。
改善さえすれば、問題はなくなるはずですから。

死と再生

ちょっと、大袈裟なタイトルをつけちゃいました。
ドキッとした方もいるかもしれませんよね。
"死と再生"というテーマは、元々は"イニシエーション(通過儀礼)"という意味があります。
"通過儀礼"というのは、例えば成人式、結婚式などがありますね。
儀式を通して、今までの自分が一度"死"を迎え、そして新たに"再生"されるんです。

成人式なら、今までの子供の自分が"死"を迎え、そして新たに大人として"再生"される。
結婚式なら、今までの息子(娘)が"死"を迎え、そして新たに夫(妻)として"再生"される。
つまり、個人としての自分は変わらないんですが、新たな立場に変わるという事です。

物事の解釈は、個人的に僕は自由だと考えています。
もちろん、転用も自由だと思います。
自分がいかに納得できるか、それだけだと思います。
そして、それが全てであり、始まりだと思います。

今までの自分と"決別"し、新たな自分として"再生"してみませんか?

一休み一休み

すっかり更新が遅くなってしまいました。
ちょっと個人的な事で、タイトルの通り、一休みが必要だったようです。
日々の生活は続いていくものですが、ひょんな事で落とし穴があるものです。
その落とし穴がどれだけのものなのか、落とし穴に落ちてみて、始めて気づきます。
そして、落ちた本人にしか本当のところは分かりません。
それにどう向き合っていくのか、向き合い続けることによってのみ、折り合いがつけれます。
折り合いをつけるのに、時間がかからなくても、とんでもない時間がかかっても、いいのではないでしょうか。
確かに、時間がかかればかかるほど、辛くて苦しい時間も長くなります。
向き合う事が辛くて苦しくて、逃げたくなります。
それだけ、問題は大きいんでしょう。
でも、解決しない問題はありません。
それは、解決の答えは、落ちた本人にしか出せないからです。
それがどんな答えであろうと、本人が納得できたなら、それは本人にとって正解なんでしょう。
もちろん、それだけではありません。
その後は、周りとの折り合いの調整という問題があります。
人は必ず誰かと関わりを持って生きています。
ですから、少なからず周りも影響を受けています。
周りの人も、その影響に対する答えは人それぞれです。
人それぞれですが、その答えもまた、その人にとっては正解なんです。
それを自分なりに折り合いをつけるのもまた、大変なことです。
ですが、自分の問題としっかり向き合って答えが出ているのなら、案外なんとかなるものです。
なんともならないのなら、自分の問題にしっかり向き合えてないのかもしれません。

まず第一に、自分と向き合う。
そして、それから周りと向き合う。

どれだけ時間がかかっても、解決しない問題はありません。
自分しか、正解は出せないですから・・・。

義母と確執、優しくできず

今回も 中日新聞の ねえねえちょっと に掲載された相談について考えてみたいと思います。
どうぞお付き合い下さい。

今回の相談内容は、三十三年前に結婚して義父母と同居されてる方の相談です。
以来、生活習慣や考え方の相違から義母(81)と確執が続いているとのことです。
体調が悪いと時間かまわず長男の夫を起こしますが、たった一度、実家の父を見舞ったこの方を責めるとのことです。
義父を何度も検査に連れていったことは忘れているとのことです。
優しくしたいと思う反面、義母が許せません。
イライラして夫にあたってしまう自分も情けないとのことです。

これはなかなか難しい問題ですね。
義父母と同居してからの年数、確執が続いているんですよね。
義母が許せません、の部分に強い感情を僕は感じました。
確執が続いているので、イライラしてご主人に当たってしまうのも自然の流れではないでしょうか。
そんな自分を情けなく感じてしまうのもまた、自然の流れなのかなと思います。

優しくしたい、との事ですが、今はまだかなり難しいのではないでしょうか。
生活習慣、考え方の相違による確執が三十三年間続いていますので、既にこの方だけの問題ではなく、確執の関係で築かれた義父母との関係も出来上がっている気がします。
人間関係は、相手との関係性によって成り立ちます。
ですから、確執の関係性が出来上がっていると、その相手との間に起こる出来事も必然的に確執めいたことになってしまいます。
優しくしたいと思う反面、義母が許せません、ここはかなり重要だと僕は感じています。
相手に優しくする、はこちらから働きかける行為になります。
許せない相手に対して、優しくするのは、かなり難しいのではないでしょうか。
難しい事をしようとして、できないから、イライラして夫にあたってしまって、その結果、情けない気分になってしまう。
本当にお辛いですよね。
ですから、優しくするのは最終目標として、まずはその下準備として、離れてみるのがいいのではないでしょうか。
といっても、現実的な距離のことではありません。
生活習慣、考え方の相違はお互い様ですので、違って当たり前という考え方を持つ、という事です。
今は、お互いの距離が近すぎるのかもしれません。
近すぎるゆえ、確執が生じている可能性もあります。
あえて、離れすぎるぐらい離れてみて、そこから近づくのがいいのかもしれません。
自分と相手は違うと意識してみて、見えてくるものもあると思います。
義母と長男の夫との関係も違って見えるかもしれませんよ。