free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

愛知県一宮市今伊勢町新神戸
郷浦11-1明和ハイツ203号
                  TEL.0586-43-0848

アクセス上位

どうする?トーチ演舞

今回は、9月5日の中日新聞朝刊の記事について考えてみたいと思います。

というか、僕の結論を書かせてもらいます。

全くもって、考える必要もありません。
ここまでハッキリ書くのもどうかと思いますが、即刻止めるべきです。

練習中にトーチに巻いたタオルに染み込ませた灯油がたれ、服の袖に付着し、火を付けたトーチを振った時に引火し、右腕やひじに大やけどを負った。

今回の事故の内容です。

中学生の子供にとって、どれだけの恐怖ですか。
周りで見ている子供達も、どれだけの恐怖を感じたか、
本当に、心が痛みます。

市内では例年、十件前後の小規模なやけど事故が起きていた、
全くもって、お話しにもなりません。

まさに、起こるべくして起きた、人災です。

花火と一緒です、
見るだけでも十分感動できます。

演舞は大人が自己責任でやればいいんです。
それを子供達に見せて、感動してもらえばいいんです。
自己責任を持てない未成年に、危険なことさせて、どうするんですか。

子供が例えやりたいといっても、大人として、止めるべきです。
火遊び見つけたら、普通に叱るでしょ、
なにが違うんですか、でっかい火遊びでしょ。

体験して、良い思いでなんていっても、
こんな事故が起こってるのに、それでも言えますか。
感動じゃなく、達成感と違いますか?
自分の大切な子供が同じ事故にあっても、
同じことが言えますか?

今回は、ちょっと(かなり)思うところがあったので、書かせてもらいました。
気分を害された方がおられたら、本当に申し訳ありません。

愚痴は毒となり呪詛となる

僕は愚痴を吐くを毒を吐くと同等みたいにこのこらむで書いてきましたが、どうも最近場合によってはそれ以上にヒドイ状態もあるみたいだと認識を改めました。
人間というものは基本楽をしたい生き物だと、僕の中では認識しています。
楽をしたいからどんどん技術は進化していき、その技術にあっという間に適応していき、それまでの生活水準には戻れなくなっていく、そんな生き物だと思います。
楽を覚えれば楽をしないにこしたことはない、基本そんなとこではないでしょうか。
もちろん、全てがそうだとは思いませんが、学習するという前提ですと、そうなっちゃいますよね。それを否定しちゃうとちょっと色々と困ってしまうことになっちゃいますしね。

愚痴を溜め込むのはもちろん先々のことを見越すと問題なんですが、愚痴を吐き続けるのももちろん問題です。
溜め込むと毒ですから吐かなければ体内に毒を溜め込むことになります。
その毒が溜まることにより、医学的臨床データでは異常が表れない身体の異常がいずれ表面化してきます。
データ上は異常がないからお医者さんも問題ありませんとしか答えてくれません。
ですが、実際身体の異常は症状として出ています。
あとは答えを探し求める無限ループに突入となっちゃいます。
身体の異常を直したいという目的が、信じてもらえないので、いずれ症状の答えを探すという目的に変わってしまいます。
そして長い時間をかけ、苦労して症状の正体が分かると、信じてもらえなかった分、その答えの正当性を訴えることに力を注いでしまいます。
元々は、身体の異常を直すという共通目的があったのに、いつの間にかズレが生じ、いずれ決定的な決別となってしまいます。
そんな経験を体験してしまうと、それを学習し、二度と繰り返さないと自分の中で決めます。誰だって嫌な思いなんてしたくありませんからね。これが信念というものです。
嫌な思いをしただけ、強固な信念の出来上がりです。
もちろん、悪いわけではありません。
ただ、度を越す信念もまた、いずれ問題となります。

その度を越えた信念が、愚痴どころか、毒ですら甘く、まさに呪詛とも言えるぐらいのものを周りに撒き散らす結果をもたらします。
もちろん、本人はそんな自覚はありません。
自覚があるなら、誰だってそんなことしませんよね。
自覚がないからこそ、問題なんです。
しかし本人以外の周りは、同じ感覚を味わいます。
そこまで言う、そこまでやる、と。
それは、まさに愚痴どころではなく、毒でも生易しい、まさに呪詛と表現しても過言ではないものです。
自覚がないから、他人からの指摘に力一杯抵抗します。
二度と嫌な思いをしたくないという、自己防衛に基づいた信念の結果の行動です。
それを否定されるということは、また同じ嫌な思いをしてしまうかもしれません。
ですから、本人は過剰なほど抵抗します。
そこに、周りとのズレが生じます。
親しくない人は我先にと逃げ出し、親しい人も、なんとかしたいという思いから妥協しながら付き合います。
しかし、あくまでも妥協ですからいずれ、限界がきます。
だって、毒どころか、呪詛を聞き続けるわけです。
普通に考えて、耐えられるわけないですよね。
で、いずれ距離をとります。
それは仕方ないことなんです、生物として、自分が一番なのは当然なんです。
ですが、吐き続ける本人は自覚がないから、さらに他の新たな対象を探します。

これは、程度の差はあれ、どこでも見受けらる普通の出来事です。
進化と言っていいのかどうか分かりませんが、極論で考えてみると、色々な出来事の流れが見えてきます。

ちょっと冷静に、客観的に物事を見てみると、今まで理解できないと思っていたことも案外理解できることも多いです。
これもまた、学習の一種なんですけどね。

呪いの藁人形!?

以前もこらむで書いたと思いますが、車中はラジオをつけています。
けっこう有効なネタを提供してもらえて、僕的にはかなり重宝していますね。
で、今回もラジオから仕入れたネタで書かせてもらおうかなと思っています。

藁人形、です。
それも、呪いの藁人形です。
オドロオドロしいですねえ。
しかし、使うと使わないではストレスの減り方が
33%も違うというデーターが出たそうです。
どうですか、この数字!!
使わない手はありませんよね。

なんて、ちょっと悪ノリしてしまいましたが、
別段不思議な話でもなんでもないんです。
当たり前な、ストレス解消の一つの手段でしかないんです。

溜め込んでしまったものは、自然には消化されません。
当人の努力によって消化されるにすぎないんです。
知識を得る、気づきを得る、吐き出す、
腑に落ちるという表現がありますが、
本当に、心底納得するときはそんな感覚を味わいます。
で、その感覚を得たなら、悩みなんて解消されちゃっています。
納得できないからいつまでもどっかにひっかっかっちゃっているんです。

吐き出すという行為は、お酒の席でも有効ですね。
真剣に悩みに向き合うと、自然と感情は昂ります。
普段は意識して押さえていた感情がひょこっと顔を出します。

イメージしてもらうのは、狭いお風呂ですかね。
膝を曲げないとお湯につかれない湯船なんて最高ですね。
お湯から曲げた膝がひょこっと出ています。
まるで氷山の一角状態ですね。
水面が普段自分を押さえつけている、自分の中の常識のラインです。
道徳とか、規律とか、まあもろもろですかね。
それに当てはまるものは水面から上に、
当てはまらないものは水面から下に押し込まれます。
水面から上は意識、
水面から下は無意識、
浅瀬は前意識、
となります。
さて、お酒はそのラインをちょこっとだけ下げてしまいます。
普段は頑張って隠されている、氷山の一部が顔を出しちゃうんです。
それが、前意識となります。
普段隠しているもの、
そりゃ、酒癖悪くなりますよね。
でも、出しきるとかなりスッキリします。
ちなみに泣く行為は個人的見解ですが、
真剣さが増すほどカウンセリングと同じ効果はあると思います。
押さえ込まずに、ありのまま出しきる、ですね。
で、泣くぐらいならいいのですが、
暴力を伴ったのは、ちょっと頂けません。
他人の権利を無視していますからね。
それは許されることではありません。

で、藁人形です。
これはかなりいいと思いますね。
ちょっと取り入れたいと、真剣に検討しています。
途中で気づくというのもいいですしね、
そこまでやる必要あるのかな、と。
そこで気づきを得たならそれでよし、
やり抜いてスッキリするならそれもよし、
自分の悩みに自分で答えを出す、
理にかなってますよね。

我慢しすぎると・・・

最近あった事なんですが、僕の二台前の車が法定速度40㎞の道路を20㎞で走行していたんです。
法定速度の半分の速度で走っているんですよ。
もちろん、後ろは大渋滞です。
僕が通勤途中ですので、めちゃくちゃ早い時間にも関わらず・・・。
これはあくまでも僕の考え方なんですが、法定速度を守らないというのは早すぎてももちろんダメですが、遅すぎるのも問題があると思います。
その結果が、僕の後ろの大渋滞という結果が証明していると思います。
ですが、僕の前の車、つまり大渋滞を引き起こしている車の後ろを走っている車の運転手さんですね、
ちょっと僕的には感心しているんですが、よくもまあ付き合ってるなあと思ってたんですよね。
もし、僕がすぐ後ろを走っていたなら、速攻抜かしていたと思います。
法定速度を守っていない車に付き合う必要はないですからね。
それでイライラするのも嫌ですし、そんなのに付き合う必要もないですからね。
ですが、僕の前の運転手さんは抜かすタイミングは沢山あったんですが、そんな素振りも全く見せず、律儀に後ろを走っているんですよね。
法定速度の半分の速度の車の後ろをですよ、
まあ僕も急いでるわけではないですし、直接後ろでもないですから抜かすわけにはいかず、そのまま走っていたわけですが。

で、その遅い車が信号で直進し、その後ろの車、つまり僕の前の車ですね、ちょうど僕と同じに信号を左折したんですよ、
つまり遅い車から解放されたわけです。

いやあ、ビックリですよ、
僕もそこそこ速度は出す時は出す方ですが、
全く着いていけませんでした。
あっという間に引き離されちゃいました。

車というものは、自分の意志で動かす事が出来ます。
つまり、ある意味、素の自分が出せるものだと個人的には考えています。
ですから、以前も書いたかもしれませんが、車に乗ると性格が変わるというわけではなく、
周りを気にする必要がなくなると勘違いするので、運転が荒っぽくなる人が多いと思うんですよね。

で、僕の前の運転手さんです。
気を使ってたんでしょうね、法定速度を守っていない人に対して。
過剰な程に。
その結果、その人が離れたと同時に、今までの鬱憤を晴らすような破天荒な運転をしちゃったんでしょうね。
僕はその一部始終を見ていたから納得できますが、見てない人にはどんな風に映っているんでしょうかね。

付き合うのは大事だと思いますが、
それによって、自分をなくす事になるほど我慢する必要は果たしてあるんでしょうかね。

何事にも言える事だと思いますが、
距離感というのは大事だと思います。
それも、他人目線ではなく、
あくまでも、本人目線に置ける距離感です。
もちろん、第一に置いてほしいのは、世間一般の常識ですよ。
常識なければ単なる我が儘でしかないですからね。
それを押し通すなら結果は自明の理ですよね。

普通に生活するだけでも学ぶ事は沢山あると思います。
何気ない日常こそ、色々な思惑が集まって
何気ない日常を作り出しているんです。
何気ない日常を知っているからこそ、
何気ない日常を壊してしまう違和感に気づけると思います。

何気ない日常を壊す違和感に、我慢しますか?
我慢するぐらいなら、何か対策を立てませんか?
その方が、より建設的だと、個人的には思います。
放り投げれるならいいんですが、そういうわけにもいかないなら、
対策たてた方がいいのではないでしょうか?
だって、我慢しすぎると・・・。

舞台が大きかろうと小さかろうとすることは同じ

普段僕はテレビを見ないのですが、それでも何回も繰り返し目にするスポーツの反則行為が気になっていました。
そして昨日、その行為をした選手の記者会見がありました。

一言、僕の感想を述べたいと思います。

素晴らしい、その一言につきます。

確かに、行為自体は許されるものではありません。
一般人が記者会見を開くなんてとても勇気がいることです。
しかし、端的に分かりやすく、出来事を述べながら一つ一つに自分の思いを述べることにより、自分が追い詰められていたかを客観的に見ることができ、過ちも素直に認めることが出来ていたと思います。

理屈では分かることですが、大きい舞台で出来るのは並大抵ではありません。
効果は大きいことが分かっていたとしても。
元々、素直な人柄をしているんでしょうかね、周りのサポートも素晴らしいのではないでしょうかね。
もちろん、それを素直に受け入れる人柄がさらにいい効果を生んでいるんでしょう。

人は過ちを犯す生き物ですが、同時にやり直す事も出来る生き物です。

名前を書くのもどうかと思いますが、宮川さんの今後に幸多いことを祈っています。

で、締めれたらよかったんですが、今朝のニュースでコーチの意見がでていました。

いやー対照的ですね、本当に。

テンプレっていうにはこのことを言うものです。
興味がある方は交流分析を少しだけ調べてみて下さい。
非常に分かりやすく、今回の出来事が理解出来ると思います。

少しだけ。
ダチョウ倶楽部の”押すなよ、押すなよ”は”押せ”っていうお約束。
だって、”押す”と喜ぶもん。

会見文を読むだけで、全て理解できますね。

言葉アレルギー

さて、前回のこらむに関連して、ちょっと個人的な事を書かしてもらいます。

取り上げるニュース、気になる話題等々、人それぞれ違いますが、違って当たり前なんです。その人の思考に左右されるからであって、その思考が全くない人は気にもなりません。”へーそう”なんてもんですね。

で、言葉アレルギーとあえて言わせてもらいますが、個人的にどうも
”ボランティア”
という言葉がどうもダメです。
花粉症のように過敏に反応してしまいます。
どれぐらい過敏に反応するかというと、立て続けにこらむ書くぐらいダメですね。
それもこんな短時間で書き上げるぐらいに。

もちろん、自己責任において”勝手に”ボランティアしてる方は全く問題ないです。
むしろ、尊敬さえしてしまいます。
続けば、ですが。
他人を巻き込む、酔いしれる、残念ながら少なくとも僕が知り合った方々はそんな人が大半でした。
”勝手に”やってるのに何言ってんの、
”勝手に”やってるのに嫌ならやめればいいやん、
そう思ったことがどれ程あったことか。

とまあ、そんなこんなで
”ボランティア”
という言葉、アレルギーです。

名古屋市 小学校部活廃止へ

名古屋市教委は、教員の負担軽減のため、小学校の部活動を2021年3月末に廃止する。
教員が指導する現在の部活動の代わりに、教員OBらを指導者として活動する場を新たに設ける意向。

名古屋飛ばしとかなんだかんだ言われること多いですが、これはとても素晴らしい取り組みだと個人的に思い、こらむで早速書かしてもらいました。
何十年も続く習慣というものは、それがまるで当たり前のように錯覚をしてしまいますが、それは錯覚であり、もちろん当たり前のことでもありません。
業務ではなく、自主的活動として指導する、そんなバカな話しあるわけないです。
教員の負担が増えるのは至極当然です。
仕事として給料がでるならいざしらず、全く出ないのに負担だけさせる、
誰かの犠牲の上に成り立っている幸せなんて、破綻しないわけありません。

このような取り組みができる名古屋市、見直しました。
どこかの団体も見直してもらいたいものです。
叩かれるのには、少なからず理由がありますから。

もちろん、やりたい人は自己責任において”勝手に”参加するのは問題ではないんではないでしょうか。
それはその人の責任においてやるわけであって、強制ではないですし。
どちらにおいても、強制は負担になります。
良いことも悪いことも両極にあるだけで根本は同じですから。

 

触らぬ(疫病)神に祟りなし

このこらむを書くようになって、僕はホント理屈好きだなあって思い知らされます。
漢字、熟語、ことわざとか、そっからこじつけるのホント多いですもんね。
てか、好きなんですよねえ、ホント。
昔、ある人に
「お前は理屈っぽい」
と言われましたが、その通りですよね。
まあ、自覚するのが一番大事ということで・・・。

さて、それでは本題です。

”触らぬ神に祟りなし”
余計なことをしなければ巻き込まれない、みたいな感じですかね。

どうですか、けっこう頻繁に起こっているイベントではないですかね。

大抵、そんなイベントを起こす人は決まっていて、むしろ、どこでも起こすんではないでしょうか。
というか、起こしますね。

分かりやすく解説すると、何回もこらむで書いてますが、人は

”思考、行動、感情”

というパターンを持っています。

思考によって、行動が決まっちゃうんですよね。
ですから、そんな人は、頑強な思考を持っちゃっています。

つまり、融通がきかないほど頑強な思考です。
ですから、どこでも衝突するんです。
というか、衝突しないわけありません。

これもまた、時々こらむで書いていますが、

”人は変わらない”

というのも取り上げています。

これは厳密にいうとちょっとだけ違うのですが、
自分で変えなければ、変わらない、です。

しかし、頑強な思考です。
余程、その人が困らない限り変えません。
ですから、その人は、変わりません。
今のところは。

なら、どうするのか。

”触らぬ(疫病)神に祟りなし”、です。

近づかなければ巻き込まれません。

さて、もうひとつ、です。

巻き込まれる人も、大抵、いつも巻き込まれます。
それはなぜか。

自ら寄ってっちゃってるからです。

これもまた、思考がなせるわざですね。

もちろん、立場上関わらなければならない人はお気の毒様です。

巻き込まれないにはどうするか、

逃げの一手です。
これしかありません。

もちろん、僕らカウンセラーはスキルを持っているので対処できます。
しかし、これは僕個人的な話しになりますが、仕事でなければ極力関わりません。
これもまた、思考のなせるわざですね。
もちろん、経験、知識に基づいてる思考ですので、これまた強固な思考です。
ここでもまた、変わらないいい例ですね。

もちろん、他のカウンセラーの方々のことは知りませんので、あしからず。

新しい船出

さて、個人的な話になりますが、本日、2月10日、僕が所属している協会主催の講演に行ってきました。
といっても、もちろん今回が初めてではありません。
資格を取得する前にはもちろん、毎年必ず講演には参加しています。
資格を取得する前の方が、毎回イベントには参加していましたね。
鉄は熱いうちに打て、ではないですが、カウンセラーの資格を取ると決めて動き出してからは
迷うことなく講演には参加していましたね。
自分でいうのもなんですが、決めたらとことんやりたいと思っちゃうんでしょうね。
まるで他人事のように書いちゃいましたが。

で、いざ資格を取ったら、年一回の講演には参加しますが、
興味を持った講演以外は参加しませんね。
理由としては、カウンセラーの資格を取得し、知識も得たので、
後は自分の中で熟成していく、てとこですかね。
綺麗にまとめると、ですが。
もしくは、
鉄は熱いうちに打て、ですかね、ホント。
または、熱しやすく冷めやすい、ですかね。

それで、わざわざ今回の講演をこのこらむで書いてる理由なんですが、
カウンセラーの資格を取得し、もうすぐで6年となりますが、
新たに資格を取得し、学びたい、と今回の講演で強烈に思ってしまったんですね。

さて、で、今回のタイトルとの結びつきです。

僕は今回の講演に非常に興味を持ち、資格取得をしたいと思い、資料を取り寄せようと動き出しました。
元々のカウンセラーの資格プラスですので、厳密には新しい船出とは違うかもしれませんが・・・。
とりあえず新しい事をしたいと思い立ったら動き出す、ですかね。
新しい事を学ぶ事にも抵抗はありませんし。

しかし、以前からこうだったわけではありません。

カウンセラーの資格を取りたい、と思い立った時はなかなか行動できませんでした。
実際、働きながら資格を取れるのか、等々、色々言い訳をしながら、行動に移せませんでした。

あえて、自分自身の事ですので、言い訳と書かさせてもらいます。

当時はそんな事、思いもしませんでしたし、認めたくなかったですが、
今なら断言できます。
自分自身に言い訳をし、新しい事を始める事に抵抗、不安を感じていました。
やりたいのに、やりたくない、
二律背反、と言いますが、
まさしくそんな状況ですかね。

その当時には必要な時間だったのかもしれませんが、
もったいない時間の過ごし方だったなあ、と今なら思います。

知人が新しい事を始めるにあたり、
いざ、その時が近づいた時に、不安に押しつぶされそうになった時に、
このタイトルの言葉を贈りました。

本当に、上手い言葉だと思います。

あえて、船出としているのが素晴らしいです。
地に足がついていない状況なんです。
そりゃあ、揺れまくりですよね、船ですから。
ですが、いずれ陸地には着きます。
なら、揺れまくりの船出をあえて味わいながら、
船旅を楽しんでみませんか、と。

豪華客船の安定した旅もいいのですが、
揺れる船旅もまた、いいものではないでしょうかね。

さて、この言葉にはもう一つの意味もあるんです。

新しいんです。

ですから、気づいていないだけで、以前にも船旅はしているんです。
ただ、安定していた陸地に長く留まっていたために、
新しい出航に抵抗があるだけなんです。
もう既に、船旅は経験済みなんです。
なら、恐れる必要はありませんよね。
あえて言うなら、船旅の準備が不足しているのかもしれませんね。
食料であり、水であり、足りない物を補う必要はあるかもしれません。

ですが、たった一つだけ注意して下さい。

大海原に、いかだで出航するとどうなっちゃいますか?

もし、周りに反対ばかりされるなら、今一度、考えてみて下さい。
ひょっとかしたら、あなたの船はいかだかもしれません。
当人より他人の方が客観的判断を下せます。

そんな時も、諦めるではなく、準備する、です。

せっかく自分自身で決めた事ですし、準備不足で諦めたらもったいないですよね、悔いも残りますし。

いかだも時間をかければ、それなりに出航に耐えられる船になります。

大事なのは、あなたはどうしたいか、です。

傾聴とカウンセリングの違い

久々に、知り合いと飲みに行きました。
そこで指摘されたのですが、
”なんで?”
という概念が、どうも僕には欠けているようです。
会話の流れで、
”どこどこへ行く”
って話しになったのですが、それに対し、僕は
”お祝いしなきゃ”
と返事したのですが、
どうも、その流れは不自然らしく、
”どこどこへ行くんよ”
”なんで?”
”こうこうこうで、どこどこへ行くんよ”
”それじゃお祝いしなきゃね”
と、なるそうなんです。

結果的には、お祝いに近い内容なのでいいのですが、
相手からしてみると、
””なんで?”がないのに、どうしてお祝いって返事になるの?”
だそうです。

指摘されて初めて考えてみましたが、
”あ、そんな概念ないわ”と思い至りました。
いいのか悪いのか分かりませんが、ある程度の知り合いなら、ある程度行動も推測できますよね。
推測できる以上、”なんで?”ではなく、”へーそうなんだ”ぐらいなんですよね、僕の中では。
だからそこから推測して、今回は
”お祝いしなきゃ”
と返事したわけなんです。
指摘されなければ全く気づきもしないことなんですが、
いざ知ってみると、我ながら面白いものですね。

とまあ、こんな感じでスタートしたわけなんですが、
タイトルを見てもらうと、なんかえっらい難しい内容だと思われるかもしれません。

いやいや、全く違いますので。

本当に、基本さえ押さえてもらえれば、
ただの飲み会も悩みの解決の糸口に結びつくかもしれません。

では、その違いから。

傾聴というのは、相手の話すことを、そのまま否定もせず、受け入れる行為です。
老人ホームとかでは、傾聴ボランティアの方々が活躍されています。
ただ、話し相手になってもらう、否定もされず、ただ、そのまま受け入れてもらう。
ただ話しを聞いてもらえるだけでも、すごい安心感があります。
自分自身を受け入れてもらえた、肯定してもらえた、たったそれだけでも素直に嬉しいものです。
聞き上手、そんな人って周りでも人気ありませんか?
そのスペシャリストが、傾聴ボランティアの方々です。
しかし、相手が何か悩みがあったとしても、解決に結びつく可能性は低いです。
まあ、元々悩みの解決が目的ではないですからね。
でも、可能性が低いだけであって、解決に結びつくことももちろんあります。
あえて、勝手にと書いておきますが、話しながら勝手に解決してしまう、そんな方々もいます。

さて、一方カウンセリングというものはどういうものなのか?

まず、前提として、傾聴は基礎です。
傾聴を心掛けて相手の話しを聞いていると、話しの中に”矛盾”が生じているのが分かります。
傾聴だけなら、それはそのまま受け入れます。
ですが、カウンセリングではそれをそのまま受け入れません。
その矛盾こそ、問題のキーポイントとなるからです。
悩みがある以上、何か問題があったわけです。
となると、何かが流れを阻害しているから問題になったわけなんです。

問題にもよりますが、話しの中で矛盾は何か所も出てきます。
そこを相手に指摘してみるんです。
相手が話した内容のままに。
面白いことに、矛盾を指摘してみて話しを促してみると、
まるで関係ないと思える話始めの、最初の内容までつながったりします。

とまあ、あくまでもこれはカウンセラー目線での話しですが、
飲み会は飲み会、とくにこれといった療法もテクニックも使うわけではありません。
使うのは、傾聴と矛盾点の指摘。
そして、話しの促し。
たったそれだけです。
あとは相手がある時、勝手に気づいてくれます。
それはホントすぐに分かります、お互いに。
それをただひたすら待つだけです。

悩みを解決する、
いえいえ、
悩みを解決させる、
それがカウンセリングだと思います。

答えは与えられるものではなく、
答えはちゃんとそこにあるものなんです。
目を逸らさず、逸らしたものに向き合ってみませんか?