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愚痴は毒となり呪詛となる

愚痴は毒となり呪詛となる

僕は愚痴を吐くを毒を吐くと同等みたいにこのこらむで書いてきましたが、どうも最近場合によってはそれ以上にヒドイ状態もあるみたいだと認識を改めました。
人間というものは基本楽をしたい生き物だと、僕の中では認識しています。
楽をしたいからどんどん技術は進化していき、その技術にあっという間に適応していき、それまでの生活水準には戻れなくなっていく、そんな生き物だと思います。
楽を覚えれば楽をしないにこしたことはない、基本そんなとこではないでしょうか。
もちろん、全てがそうだとは思いませんが、学習するという前提ですと、そうなっちゃいますよね。それを否定しちゃうとちょっと色々と困ってしまうことになっちゃいますしね。

愚痴を溜め込むのはもちろん先々のことを見越すと問題なんですが、愚痴を吐き続けるのももちろん問題です。
溜め込むと毒ですから吐かなければ体内に毒を溜め込むことになります。
その毒が溜まることにより、医学的臨床データでは異常が表れない身体の異常がいずれ表面化してきます。
データ上は異常がないからお医者さんも問題ありませんとしか答えてくれません。
ですが、実際身体の異常は症状として出ています。
あとは答えを探し求める無限ループに突入となっちゃいます。
身体の異常を直したいという目的が、信じてもらえないので、いずれ症状の答えを探すという目的に変わってしまいます。
そして長い時間をかけ、苦労して症状の正体が分かると、信じてもらえなかった分、その答えの正当性を訴えることに力を注いでしまいます。
元々は、身体の異常を直すという共通目的があったのに、いつの間にかズレが生じ、いずれ決定的な決別となってしまいます。
そんな経験を体験してしまうと、それを学習し、二度と繰り返さないと自分の中で決めます。誰だって嫌な思いなんてしたくありませんからね。これが信念というものです。
嫌な思いをしただけ、強固な信念の出来上がりです。
もちろん、悪いわけではありません。
ただ、度を越す信念もまた、いずれ問題となります。

その度を越えた信念が、愚痴どころか、毒ですら甘く、まさに呪詛とも言えるぐらいのものを周りに撒き散らす結果をもたらします。
もちろん、本人はそんな自覚はありません。
自覚があるなら、誰だってそんなことしませんよね。
自覚がないからこそ、問題なんです。
しかし本人以外の周りは、同じ感覚を味わいます。
そこまで言う、そこまでやる、と。
それは、まさに愚痴どころではなく、毒でも生易しい、まさに呪詛と表現しても過言ではないものです。
自覚がないから、他人からの指摘に力一杯抵抗します。
二度と嫌な思いをしたくないという、自己防衛に基づいた信念の結果の行動です。
それを否定されるということは、また同じ嫌な思いをしてしまうかもしれません。
ですから、本人は過剰なほど抵抗します。
そこに、周りとのズレが生じます。
親しくない人は我先にと逃げ出し、親しい人も、なんとかしたいという思いから妥協しながら付き合います。
しかし、あくまでも妥協ですからいずれ、限界がきます。
だって、毒どころか、呪詛を聞き続けるわけです。
普通に考えて、耐えられるわけないですよね。
で、いずれ距離をとります。
それは仕方ないことなんです、生物として、自分が一番なのは当然なんです。
ですが、吐き続ける本人は自覚がないから、さらに他の新たな対象を探します。

これは、程度の差はあれ、どこでも見受けらる普通の出来事です。
進化と言っていいのかどうか分かりませんが、極論で考えてみると、色々な出来事の流れが見えてきます。

ちょっと冷静に、客観的に物事を見てみると、今まで理解できないと思っていたことも案外理解できることも多いです。
これもまた、学習の一種なんですけどね。

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