free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

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自分自身

去らない嵐はない

今年は少しばかり例年と違い、異常気象が多いですね。
今月も二週に渡り、同じような進路で日本列島を台風が通過していきました。
各地に甚大な被害をもたらしながら、台風は去っていきます。
当たり前の事ですが、その場に留まったまま、そんな状態は続かないんです。
必ず、通過していくんです。

人間関係のトラブルもまた、ある意味、台風に似ているともいえます。
何も問題がない時は、穏やかな過ごしやすいいい天気です。
しかし、一旦問題だと思うと、穏やかな天気が大荒れな天気となります。
大荒れにふさわしく、感情も激しく揺れ動いています。
台風の発生です。
では、この台風は、一体どこで発生しているんでしょうか?

それは、自分自身の思考、感情から発生しているんです。

確かに、周りの環境もあるかもしれません。
例えば、誰々のせいで等々、言いたくなる時もありますよね。
でも、その誰々が元凶なら、周り全部被害を受けるはずなんです。
ないとは言いませんが、周り全部が被害を受ける状況というのはあまりないのではないでしょうか。
なら、周りとの温度差が発生する、それはどこで発生しているのでしょうか。
そうです、自分の中で、台風が発達しているんです。
自分の中でしか、台風は発生していないので、周りとの温度差に余計イライラしてしまうんです。

実は、誰々のせいで等々の後に、温度差の違いが出てくるんです。
自分自身の内面にちょっとだけ目を向けてください。
どう感じたのか、どうしてそう感じるのか、なんとなくですが、思い当たる事があるのではないでしょうか。
思い当たるなら、それが台風の発生源です。
例えば、誰々の~が許せなくて腹が立つ等々、色々あるとは思います。
誰々の~が、あなたは許せないんですが、周りは別に気に留めるほどの事ではない、ただそれだけなんです。
それは、温度差が出てしまいますよね。
そんな時は、今一度、自分の内面と向き合ってみてください。
温度差が発生した原因=台風の発生源である、あなた自身の思考です。
もう一度見直してみると、ちょっと偏りがあるのかもしれません。
偏りを修正してみると、台風は去っていきます。
当然ですよね、元々、その偏りが発生源だったわけです。
台風そのものを生み出していたのも、自分だったからです。

さて、それでは、誰々が本当に原因の時はどうなるんでしょう?
どれだけ強い勢力を持った台風も、やがて自然に消滅していきます。
同様、自然とまではいかないですが、改善がなければ、いずれ去っていくことになるでしょう。
冷静に、自分の立場を判断するのは難しいと思いますが、もし、その立場に自分が立ってる場合はどうしたらいいんでしょう?
その時は、必ず改善して欲しい要求をされているはずです。
今一度、その要求を冷静に見直してみてください。
改善さえすれば、問題はなくなるはずですから。

死と再生

ちょっと、大袈裟なタイトルをつけちゃいました。
ドキッとした方もいるかもしれませんよね。
"死と再生"というテーマは、元々は"イニシエーション(通過儀礼)"という意味があります。
"通過儀礼"というのは、例えば成人式、結婚式などがありますね。
儀式を通して、今までの自分が一度"死"を迎え、そして新たに"再生"されるんです。

成人式なら、今までの子供の自分が"死"を迎え、そして新たに大人として"再生"される。
結婚式なら、今までの息子(娘)が"死"を迎え、そして新たに夫(妻)として"再生"される。
つまり、個人としての自分は変わらないんですが、新たな立場に変わるという事です。

物事の解釈は、個人的に僕は自由だと考えています。
もちろん、転用も自由だと思います。
自分がいかに納得できるか、それだけだと思います。
そして、それが全てであり、始まりだと思います。

今までの自分と"決別"し、新たな自分として"再生"してみませんか?

一休み一休み

すっかり更新が遅くなってしまいました。
ちょっと個人的な事で、タイトルの通り、一休みが必要だったようです。
日々の生活は続いていくものですが、ひょんな事で落とし穴があるものです。
その落とし穴がどれだけのものなのか、落とし穴に落ちてみて、始めて気づきます。
そして、落ちた本人にしか本当のところは分かりません。
それにどう向き合っていくのか、向き合い続けることによってのみ、折り合いがつけれます。
折り合いをつけるのに、時間がかからなくても、とんでもない時間がかかっても、いいのではないでしょうか。
確かに、時間がかかればかかるほど、辛くて苦しい時間も長くなります。
向き合う事が辛くて苦しくて、逃げたくなります。
それだけ、問題は大きいんでしょう。
でも、解決しない問題はありません。
それは、解決の答えは、落ちた本人にしか出せないからです。
それがどんな答えであろうと、本人が納得できたなら、それは本人にとって正解なんでしょう。
もちろん、それだけではありません。
その後は、周りとの折り合いの調整という問題があります。
人は必ず誰かと関わりを持って生きています。
ですから、少なからず周りも影響を受けています。
周りの人も、その影響に対する答えは人それぞれです。
人それぞれですが、その答えもまた、その人にとっては正解なんです。
それを自分なりに折り合いをつけるのもまた、大変なことです。
ですが、自分の問題としっかり向き合って答えが出ているのなら、案外なんとかなるものです。
なんともならないのなら、自分の問題にしっかり向き合えてないのかもしれません。

まず第一に、自分と向き合う。
そして、それから周りと向き合う。

どれだけ時間がかかっても、解決しない問題はありません。
自分しか、正解は出せないですから・・・。

立ち止まる時、立ち止める時

週末に、新聞に乗ったある記事が気になりました。
どのような記事かは、あえて記載しませんが、その一部分だけ記載させてもらって、ちょっと考えてみたいと思います。

"集落の人に「殺していいか」と確認した上で、おりで捕まえて殺すことにした。"

起こしてしまった出来事は、なくすことはできません。
過去は変える事は出来ないからです。
ですから、何かしら決断して、行動に移す時は、事が大きければ大きいほど、自分一人では行動に移せません。
どうしても、迷いが生じるからです。
もちろん、事の大小は個人個人によって違います。
自分が決断できる範囲なら、迷うことなく行動に移せます。
自分が決断できる範囲以上ならどうするのか?
記載させてもらったように振る舞う事が多いです。
つまり、他人に相談した上で、"許可"をもらって行動に移すんです。
"許可"をもらって、と書きましたが、ここは一番食い違うとこだと思います。
つまり、水掛け論に発展する可能性が高いです。
事が大きいだけに、責任を負いたくないからです。
相談する方も、相談を受けた方も、お互いに、です。

では、どうしたらいいんでしょう?

まずは、立ち止まりましょう。
少なくとも、一人で行動に移せない事を、しようとしてるという自覚をもちましょう。
立ち止まる時、今がその時かもしれないと、今一度、よく考えてみましょう。
本当に、自分は自分自身の行動に責任が取れるのかどうか、冷静になってみましょう。
確認しなければ行動に移せないなら、尚更です。

それでは、周りの人はどうしたらいいんでしょう?

非常に見極めが難しいと思います。
自分の良心に従い、責任を持てるなら、"許可"をしてもいいんではないでしょうか。
ただし、巻き込まれるかもしれないという自覚も必要です。
自分が‘許可”をしたという”行為”に責任を持つ、自己責任を念頭に置いとかないといけないでしょうね。
そこまで責任をとれない、そんな時は、相手が自分で責任を取るように促しましょう。
自分の行動に、自分で責任を持つ、相手に自律を促します。
自分の良心に従い、どうしてもダメなら、その行動を立ち止めましょう。
それでも立ち止まらないなら、ここでもまた、自分で責任をとる、自律を促しましょう。

さて、立ち止まる時を見誤ると、どうなるのか?

行動はエスカレートするケースが多いと思います。
どうしてか、それはどこまでいっていいのか判断つかなくなっちゃうからだと思います。
なぜなら、既に、自分の判断基準を超えてしまっているからです。

この記事に関して記載させてもらった部分は、立ち止まる時だと僕が感じた部分です。
ですから、その後ももちろんあります。
その後の行動が問題になり、新聞記事になってしまったわけです。
確かに、語っている事は正しいのかもしれませんが、行っている行動とはかけ離れています。
行った行動を正当化できていない、なぜ正当化できないのか、その点を今一度、考えてもらいたいものです。

 

<ごめんな祭>高知県「後免町」で叫ぶ「ごめんなさい」を読んで

本当に、お祭りってたくさんありますよね。
こんなお祭りがあるなんて、全く知りませんでした。
どんなお祭りかというと、
<ごめんな祭>
いやあ、おもしろいと思わず心引かれちゃいました。

場所は、高知県南国市にある「後免町」というところだそうです。
地名にちなみ、「ごめん」の気持ちを伝える、シンプルかつ分かりやすいお祭りみたいですね。

「ごめんなさい」って、謝るって、なかなか難しいって感じませんか?
謝ればいいって分かっているけど、何かが邪魔をして、素直に謝れない。
そんな経験をしたことってあるんではないでしょうか。

今、現在、悪いことしたなあって思っている事があるなら、その自分の気持ちに素直に従ってみませんか?
「ごめんなさい」って、素直に自分の気持ちを相手に伝えてみませんか?
素直な気持ちを伝えてみると、相手にも伝わります。
逆に言うなら、素直じゃないと伝わりません。
"え、本当にそう思っているの?"
そう感じた経験って、ありませんか?
そう言われた経験って、ありませんか?
そう言いたい経験って、ありませんか?
それは、言葉と気持ちが一致していないんです。
どうです、思い当たりませんか?

素直に、「ごめんなさい」。
伝えて、みませんか?

あ、ちなみにお祭り自体は、今月の11日にありました。
書いてる途中で、違うコラムに手を出しちゃって、途中書きで放置しちゃってました。
「遅くなって、本当にごめんなさい。」

決めつけていませんか?

さて、今回のタイトルなんですが、一度目を閉じてでもいいですし、心に問いかけてみて下さい。
どうです、何か思い当たる事って、ありませんか?
思い当たる方は、ひょっとかしたら、対人関係でちょっとした行き違いがあったのかもしれませんし、これから行き違っちゃうかもしれません。
ちょうどいい機会です。今、気づきましたので、その事を今一度見直してみませんか。

対人関係は、相手に働きかける事によって、変化するものです。
例えば、こちらからの勝手な決めつけでも、変化しちゃいます。
親子関係、師弟関係等、上下関係ではよく起こり得る事です。
多くはあまりいい変化ではないでしょうね。
良い対人関係がいいですか、悪い対人関係がいいですか?
あなたにとって、どちらの関係がいいんでしょうね?

自分は決めつけていないなあ、って方ももちろんいますよね。
多分ですが、対人関係もスムーズにいってるんではないでしょうか?
ただ、ひょっとかしてですが、ある対応をする人とは上手くいってないのではないでしょうか?
例えば、勝手に決めつける人なんて、どうです?
思い当たらなければ、本当に素晴らしいと思います。
そのまま、ありのままの相手を受け入れているんでしょうね。

ちょっとした例として、僕の個人的行動をあげます。
ちょっとだけ、想像してみて下さい。

この前なんですが、所用で名古屋まで電車を使いました。
幸いにも席に座れたんですが、電車が発車してから、近くに70歳後半ぐらいのおばあちゃん二人連れが来られました。
一人は前の席に座れたのですが、もう一人の方は座れませんでした。
プライベートの僕の格好を知ってる方は、そのままの姿を想像してください。
知らない方は、シルバーアクセをジャラジャラつけて、タブレットを片手に、音楽を聞いてる姿を想像して下さい。
そんな男が、立っているおばあちゃんの肩をトントンと叩いて、席を譲ります、とジェスチャーで表現して、席を立ちました。
おばあちゃんは最初断ったのですが、会釈をして、席に座りました。
そして、僕はそのまま音楽を聞きながら、タブレットを見て立っています。

どうです、想像できましたか?
この光景を想像して、どのように感じましたか?

さて、どうして僕自身の行動をあげたかですが、僕が感じて、僕が行動した事だけが事実なんです。
それ以外は、実は決めつけになっちゃうんです。
つまり、あなたが想像した事であって、事実ではありません。
あと、登場するおばあちゃんが感じた事も事実です。
それ以外は、こちらもまた、決めつけになっちゃいます。

それでは、答え合わせです。
事実は、僕が見たくないから、僕の都合で座ってもらった、だけです。
それ以上でも、それ以下でもありません。ただ、それだけです。
ですから、"優しい人"とか、”えらい”とか、とにかく褒められる事を言われると、僕は本当にいつも戸惑います。なぜなら、そんな気は全くないからです。
もちろん、そう感じているんだなとは思うようにしています。
どう思うかもまた、相手の自由だからです。

おばあちゃんがどう感じたかですが、これは本人しか分かりません。
感謝してるのかもしれませんし、余計な事しおって、かもしれません。
はたまた、年寄扱いしおって、かもしれません。
怖いから、素直に座っとこ、かもしれません。
ですが、これもまた、僕にとってはどうでもいい事なんです。
なぜなら、僕がしたくてした事なんです。
感謝されようが感謝されなかろうが、どうでもいい事です。

つまり、”このわがまま野郎が”、うん、これはしっくりきますね。これが正解なんです。
正解以外の僕だと思って付き合いを持つと、いずれズレが生じます。
それはそうですよね、本当の僕を見ていないんです。
決めつけた僕の姿を、そのまま僕に見ているんです。

ズレが生じているなと感じたら、ひょっとかしたら、勝手な決めつけをしてるのかもしれません。
そんな時は、修正をしてみて下さい。
どう修正するか、それは、今一度、じっくり相手を見て下さい。
今まで気づかなかった事が、必ずあるはずです。
それを受け入れると、ズレも必然的になくなります。
ありのままの相手を受け入れる、簡単そうで難しいものです。
難しいものですが、いい関係にはなれますよ。

免罪符の乱用をしてませんか?

最近、ちょっとそんな事をふっと考えます。
そんな僕自身も、果たして免罪符の乱用をしていないかどうかというと、正直自信はありません。
ただ、自覚するかどうか、それだけでも大分違ってくるのではないかと思います。

最近のテレビ番組ですが、どうもやりすぎの気がしてなりません。
少し前はドラマもありました。
今回は、バラエティーで、です。

もちろん、お笑いは素晴らしい仕事だと思います。
個人的にも大好きです。

ですが、です。

相手は一私人です。
それをネタに笑いをとろうというのは、どうも免罪符の乱用だと、個人的に思います。

幸い、放映前に抗議を受け入れ、テレビ局も放映を中止しました。

少し、ほんの少しだけでいいです。
常識で考えてみて下さい。
傷つく人がいます。
少なくとも、放映によって、さらに深く傷つくことになります。
それは、もう、笑いではないのではないでしょうか。

笑いは素晴らしいものです。
元気の源になるものです。
沈んだ気分も、一瞬で明るい気分にしてくれます。
笑いは、本当に、素晴らしいものです。

笑いにする、
笑い(者)にする、

たった一言加わるだけで、全く違ったものになってしまいます。

テレビで放映されるという事が、どれだけ影響力があるのか、今一度、考えてみてもらいたいものです。

変わらない関係

個人的な話しになりますが、高一からの付き合いの親友達がいます。
かれこれ二十数年の付き合いになりますね。
本当に色々なことがあって、良い事も悪い事も全て知っている、そんな親友達です。
良い所も悪い所も、ではないですよ、本当に色んな事をしました・・・。
昔というと、なんかちょっと抵抗がありますが、毎日なんだかんだで遊んでいた、悪友達でもあります。
誰かに何かあったら、駆けつける、そんな青臭い事もありましたね。
これは反省してる事ですが、彼女と遊んでいる時も、誰かに何かあった時は、そっちを優先させていました。
もちろん、彼女とは喧嘩になりましたが、もっともらしい事を言って、押し切っちゃいました。
本当にごめんなさい、とここで謝っておきます。
言い合いも、喧嘩もたくさんしました。
絶交なんて事もありましたね。
でも、それ以上に、悪いと思ったことは、たくさん謝りました。

今はみんな忙しく、会う機会も長期休暇の時ぐらいになっていますが、会うと本当に居心地のいい空間を感じます。全く気を使う必要がない、ほっとする時間をそこに感じさせてくれますね。
昔と変わらない、そんな時間がそこには存在しています。
といっても、時間は残酷ですので、姿形は変わっちゃっていますが・・・。

こんな関係を話すと、誰からも決まって羨ましがられます。
確かに、時間は誰にでも平等に流れていますので、積み重ねられた時間は二度と手に入れる事はできないでしょう。
手に入れられなかった関係、二度と手に入らない関係だからこそ、羨ましく感じるんでしょうね。

でも、ちょっと待って下さい。
本当に羨ましいなら、今からでもそんな関係を築いてみてもいいんではないでしょうか?
確かに、高一からの関係となると、いい大人には無理ですよね。
でも、今からでも、今の友達達とそんな時間を積み重ねていけばいいのではないでしょうか?
どうせ続かない、そう思ったら続きません。
なぜなら、そう自分で決めてしまっているんです。

”変わらない”
僕が昔から決めている、彼等との関係です。
確かめてはいませんが、もちろん、僕一人だけではないと思います。
だからこそ、”変わらない関係”はずっと続いていくんでしょうね。

もちろん、努力はしていますよ、なんせこの前も前日に会う日程決まりましたからね。
次の日も、朝から一日予定ありましたが、合わせました。
そんな努力しているのは、僕だけでないのも、いいのかもしれません。
それもまた、昔から”変わらない関係”です。
なんて、いい話で締めれないのも、またいい関係だなと、素直に思います。

 

引率の教頭自殺 脱出を非難され?を読んで

フェリー沈没事故で、修学旅行で生徒と教師の計340人が乗っていた高校の男性教頭が、救出された後に自殺していたことが18日、韓国警察当局への取材で分かったそうです。

事故も本当に悲しいニュースですが、このニュースも心が締め付けられる思いを感じました。
家族の気持ちも痛いほど伝わってきますし、この教頭の絶望感も痛いほど伝わってきます。

「約二百人の生死が分からず、一人で生きていけない。私にはすべての責任がある。私の体を火葬して、沈没した海域にまいてほしい」
教頭の財布の中に入っていた、遺書です。

何が正しくて、何が正しくないのか、色々な意見があると思います。
色々な意見があっていいと思います。

ただ、この悲しい連鎖が続かない事を、切に願います。

自分の為に行動する

少し前の話になるんですが、踏み切りで電車が通過するのを待ってる時、見知らぬおじいさんに話しかけられました。
今日の天気の話しから始まり、色々と話しかけてこられました。
お話しを聞いてる間に、電車も通過し、踏み切りが開いて線路を渡り終えても、お話しは続きました。
立ち止まられたので、そのままお話しを聞いてると、本当に話したかった核心が出てきました。

"あ、これを誰かに聞いてほしかったんだろうな"
そう思い、今まで以上に丁寧にお話しを聞かせてもらいました。

一通り話し終えられると、おじいさんは非常に満足されたようで、お礼も言われ、今度お茶でもと誘われました。
丁寧に返事をさせて頂き、お互いに帰途に着きました。

さて、これは僕自信のエピソードです。
このエピソードでどんな事が言いたいかというと、僕もおじいさんもお互い自分の為に行動してる、ということです。
それ以上でもそれ以下でもありません。

おじいさんは、誰かに話を聞いてほしかった。
その場に、たまたま僕がいた。
だから、話しかけてみたら、話しをちゃんと聞いてくれた。
自分の目的が達成されて、満足感を得る事が出来た。
僕は時間もありましたので、断る理由もないので、お話しを聞かせてもらいました。
仕事柄、傾聴は基本ですし、スキルアップにもつながるので、僕にとってもマイナスにはなりません。
おじいさんも満足されたので、僕自身のスキルアップにもなりました。

このように、お互い自分の為に素直に行動しているので、気持ちよく別れることができるんです。

相手の為に、という考え方は大事な考えかただとは思います。
でも、それは本当に相手が望んでいることなのか考慮しないと、相手との間に溝ができます。

大事なのは、相手の為に、自分がしたいから、自分の為に行動する、が大事なのではないかな、と僕は思います。
同じように見えますが、ちょっとの違いで結果は大分違ってきます。
もし、相手にうまく伝わらないなあって悩んでいる時は、ちょっとだけ試してみて下さい。
ひょっとかしたら、今まで上手くいってなかった関係も、上手くいくようになるかもしれませんよ。