free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

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相談、質問

間違ってないなら許さないもあり

”喧嘩売ってるのか(怒)”
ある人の話しですが、60近い職場の人に言われたそうです。
もちろん、その人にそんなつもりは全くなかったので、逆に引いて冷静になったとのことです。

ちゃんと本人の許可ももらいましたので、ここに書かしてもらいますが、
内容を聞く限り、僕も個人的に思うところがあるのでここに書かしてもらいます。

事の発端は、元々の職場のルールがあって、それをその60近い相手の人が自分の都合で勝手に守らず、
結果、取引先に商品を届けた時に商品が全滅していた、とのことです。
それもクレームは取引先の店舗ではなく、取引先の本社から直接届いたとのことです。

ルールを守らず、商品を全滅させたのに、
それでもその60近い相手の人は自分の都合を押し通し、
他人の迷惑を顧みず、頑なにルールを守ろうとしません。

その人はどうしてもそれが許せず、上司とも相談し、ルール通り仕事をしようとしたそうです。
ちゃんと上司と打ち合わせし、許可ももらってです。
ルールさえ守れば、起こるわけがないと確信していたから、とのことです。

で、冒頭のその言葉です。

その人は、心底あきれ果て、上司に言ってくれと相手に言ったそうです。

そんな相手とこれからも関わっていかなければならないのか、
本当に憂鬱になる、とその人は話していました。

さて、ここからは主に僕個人的意見で書かしてもらいます。

まずは、職場で、ましてや仕事中にそんな言動をとる相手なんて気にする必要はありません。
仕事関係の関係なら、そんな相手は勝手に自分から外れていってるわけです。
そんな人は勝手にさせておけばいいんです。

これが身内とか、親しい相手ならまた対応は違ってきますが、
そんな関係でないなら、関わるだけストレスになるだけです。

タイトル通り、間違ってないなら許さないもあり、です。
もちろん、自己責任の範疇ですよ。

大人だから許す、
それもあるかもしれませんが、
大人だからこそ許せないこともある、
と、個人的に思います。

どちらが本人にとってしっくりする考え方なのか、
選択する自由は本人だけです。
もちろん、メリット、デメリットも含めてですよ。

”あの人に限って”を”あの人だからこそ”と考えてみる

”あの人に限ってそんな事は絶対ない”
なんてよく聞いたり思ったりしたことありませんか?
僕も昔はそんな事よく思ったりしました。
でも、実際は違うんですよね。

だって、事はすでに起きちゃってるんですよ、そんなときは。

なんて身も蓋もない事を言っちゃったりしますが、実際そうですよね。

でも、そんな無理矢理納得する必要もないんですよ。
それは、起こるべくして起きてしまっただけなんです。

つまり、誰の目から見ても優等生な人は、それだけの努力をしているんです。
本当に自分自身にストイックに、です。

不平不満は必ずといっていいほど起きるものなんです。
起きなければ逆におかしいんです。
自分の思い通りにいつも物事が進むなら、不平不満はないでしょう。
でも、そんな人は周りの人が見たら優等生には見えないでしょう。
要領がいいとか、ズルいとか我が儘とかあまりいいイメージは持たれないんではないでしょうか。
でも、本人がそれでいいならそれでいいんです。
そんな人は他人の評価なんか全く気にもしてないでしょうから。
むしろ個人的には自然体でいいと思うぐらいですね、僕的には。

外面がよく、内弁慶でも別に問題はないんです。
不平不満を解消し、バランスは取れていますから。
まあ、家族は大変でしょうけどね。

外面もよく、内弁慶でもなく、誰から見ても優等生、そんな人は大変でしょう。
不平不満を解消する場がないわけですから。
この上なく、バランス悪いですよね。

ですから、起こっちゃうんですよ、つもりに積もったものがドカンと。

今まで頑張ってストイックに努力してきたんですよ。
でも、頑張れば頑張るほど溜まっていく一方なんですよ、不平不満が。
そりゃあ、ドカンとなっちゃいますよね。

ドカンとなる前に是非とも息抜きを。

仏の顔も三度

昔話もそうですが、昔から残っているものには言葉一つとっても含蓄があるものです。

”どれだけ穏やかな人でも道理に合わない事が重なれば仕舞いには怒り出す”

ですから、仕方ないんです。

道理に合わない事をされて怒っても仕方ないことなんです。

怒るという行為に罪悪感を感じてしまうかもしれませんが、

道理に合わない事をする方が元々おかしいんです。

人のせいにするのではなく、

まずは自分の行動を見直してみてください。

自分の行動が道理に合っていないなら矛盾が必ず生じます。

人の振り見て我が振り直せ、といいますが、

つまり、他人であればあるほど冷静に見えるものなんです。

本人以上に・・・。

あなたの行動は道理に合っていますか?

道理に合っていないなら、怒られても仕方ないんです。

道理に合っていないのにそのままにしていませんか?

そのままにしているから、怒られても仕方ないんです。

仏の顔も三度、ですからね。

高2の長男が不登校

今回のねえねえちょっとの質問はなかなか難しい問題だと思います。
難しい問題ですが、少しだけ考えてみたいと思います。

高校二年生の長男は、高一の三学期からほぼ不登校です。
いじめなどはなく、本人もどうして学校に行けないのか分からないそうです。
小さいころから頭は良かったのですが向上心はなく、今では勉強は無意味で将来のことなどどうでもいいと言います。
カウンセリングにも通っていますが、様子見の状況です。
このままだと退学せざるを得ません。
今後どのようにしてあげればいいか悩んでいます。

さて、今まで普通に出来てた日常生活がいきなり変わってしまった時、なにかしら理由を知りたい、
身近な人がそんな状況に陥ってしまった時、誰だってそう考えるでしょう。

確かに理由を求めるのはとても大事な事です。
ですが、理由がない、
そんな事も世の中には多々あります。

では、今回の質問ではどうなんでしょうか。
文面から察すると、実際のところは分かりませんが、これといった理由はなさそうです。

ただなんとなく休み出してしまい、それが続いてしまって学校に行きづらくなってしまった。
だから勉強は無意味で将来のことなどどうでもいいと言い、
もうどうでもいいからと投げやりになり、現実逃避をしている、そんな状況ではないでしょうか。

一度止まってしまうと、再び動き出す時の負担は相当なものです。
幸いな事と言っていいかどうか分かりませんが、
学生時代はそのような事は個人的になかったのですが、
社会人になってからバイクで事故ってしまい、数か月仕事を休んでいた時期がありました。
出社が決まった時の負担は当時は相当なものでした。
周りに迷惑をかけまくったので、周りの目も非常に気になっていました。

でもそれは仕方ないことなんです。
同じ人間である以上、
誰だって思考し、感情を持っているものです。
ですから物珍しい目で見られる、厳しい意見も言われる、
そんな視線も意見も仕方ないものなんです。

ですが、それも最初のほうだけ。
しばらく続きさえすれば、日常となり、そんな視線も意見もなくなります。

よい例が幸いなことに世の中にはあります。

世間を騒がせた芸能人も
しばらくすると普通に出ていますよね。

世の中そんなものなんです。

冷めた意見ですが、
世の中それほど他人に興味があるわけではないんです。
色々と面白いことがどんどん出てくるものなんです。
ですから興味があるのは最初だけ、そんなものです。
自分が思っている以上に
自分が問題視していることは
他人からしてみると
大した問題ではないんです。

さて、これはあくまでも
僕個人の考えと個人的体験による意見でしかありません。

今後どのようにしてあげればいいか悩んでいます、
との事ですが、
まずはあなたとしてはどうして欲しいのか、
それを冷静に簡潔に伝え、
それに対し、
息子さんはどうしたいのか、
それを大人として客観的に見て、
感情論ではなく、起こりうるであろう事実として話し合うのがいいのではないでしょうか。

残念な事に
限られた時間でしか選択できないものもあります。
何かを選択するということは
何かを選択しないということでもあります。

ですから、選択しなかったという後悔は常にあります。

悩み多き年代ですが、
悩みが悩みを生み出し、迷走してしまわないように・・・。

 

鶏が先か、卵が先か

一体どっちなんだろう、考えだしたらキリがない哲学の問題ですよね。
鶏が存在しなければ卵もないし、
かといって
卵が存在しなければ鶏もないし、
果たしてどっちなんでしょうね?

なんていきなり書き出してしまいましたが、
哲学も心理学も考え方ってけっこう似通っていると個人的には考えています。
どちらも好きなんですよね。

ですが、今回の考え方は
別に答えを探求するわけではありません。

どっちでもいいんじゃない、
だって、そこに存在してるんだもん、
鶏も卵も、
なんて邪道な答えを出す考え方です。

人間関係がこじれてしまうとどうしても考えてしまうのが
被害者と加害者という構図です。
分かりやすいんですよね、明確な関係性って。
ですが、あくまでも分かりやすいだけであって
それが事実かどうか分かったものではありません。

そこで登場、
鶏が先か、卵が先か、です。

難しいんですよ、本当は。
難しいのに簡単な関係性で考えてしまうから問題は解決しないんです。

そこに存在しているんだもん、
では、そこに存在しているものは一体どんな問題なのか、
一般的、客観的視点に立って見てみましょう。

問題に解答が出ても、それは解答であって、
問題を解決する方法ではありません。

問題に解答が出たからと安心するのではなく、
問題を解決する為に何をするのか、
問題を解決する為に何ができるのか、
立ち止まるのではなく、
前に進んでみませんか。

進みさえすれば、
自ずと関係性も変わります。

関係性は後から成り立つものであり、
関係性は不変なものでもありません。

自分自身で決める、ですね。

あなたはあなた、私は私

常に顔を合わせる関係ってのもいいものですが、たまにしか会わない関係ってのもいいものです。

以前会った時の状況が変化していて、話しをするだけでいい時間を過ごすことができます。

さて、そんな知り合いとつい最近会いました。
以前会った時は、色々悩みが多く、かなり辛そうだなって思ったものですが、上手く対処していました。
それだけでもよかったなって素直に思います。

今回はまた、違う相談を受けました。

どうも、骨髄バンクに登録したい、とのことです。
どう思う?と聞かれましたので、
”大賛成”、と速攻答えました。

人が人にできることは、多くありません。
なぜなら、人は自ら決断し、行動するからです。
例えアドバイスを受け、その通りにしたとしても、
その人がそのアドバイスを自ら決断し、行動した結果でしかありません。
それは、人が人に何かしたことにはなりません。

骨髄バンクに登録する、という行為は
人が人にできることだと、僕は思います。

それを自ら決断し、行動したい、
何を反対する理由があるんでしょうか。
その決断を尊重する、
ですから、大賛成なんです。

なんかいい話っぽくないですか。
でも、タイトルとなんか違くないかい、なんて思いませんかね。

さて、それでは続きを。

”でも、俺はしないけどね、だって痛いのキライだから。”

あなたはあなた、私は私・・・。

 

社長室での喫煙が苦痛

今回のねえねえちょっとの質問を考えることによって、色々な場面で応用が出来ると思いますので、是非とも参考にしてもらえたら幸いです。
では、早速。

小さな会社で社長秘書をしています。
社長がヘビースモーカーで、受動喫煙に悩んでいます。
事務所内は禁煙ですが、社長は社長室でたばこを吸います。
ぜんそくやアレルギーがある私は煙や臭いだけで息苦しくなります。
でも社長には良くしていただいており、本人には言えません。
我慢するしかないでしょうか。

これは本当につらいですよね。
ぜんそく、アレルギーがあるとはいえ、良くしてもらっている人にはなかなか嫌とは言えないですものね。
ましてや相手はヘビースモーカー、嫌がるの分かってて止めてくださいとは言い出しづらいですよね。
その流れで、自分さえ我慢すればなんとかなるって考えてしまったのも仕方ないですよね。

でも、ちょっと考えてみて下さい。

最終的には、なんともならないから、”我慢するしかないでしょうか”という自分を納得させる作業が必要になってしまっているんです。
本当に納得できてるなら、そのような行為は存在しないはずなんです。

となると、既に我慢の限界にきているんです。
本人は気づきにくいことなんですが、そのような状況の時には案外ちょっとした態度で不満が出てしまったりします。
意識して押さえようとするにも限界はあるんです。
目は口ほどに物を言う、でしたっけ、無意識というものは正直なんです。
純粋に自分自身を守りますから。

相手に言えないのも分かりますが、
相手に言わなければ何も変わりません。
相手もあなたに迷惑をかけている事すら気付きません。
となると、なんとかしたいと思った方が言い出さなければ物事は何も進みません。

他人と関わる以上、一方的な関係というのは必ず不満を抱くものです。
最初はいいんですが、いずれなんで自分ばっかり、なんてどうしても思ってしまうものです。
でも、あえていうなら、自分勝手に、関係を一方的にしてしまっているんです。
相手に言うぐらいならとか、相手にやってもらうぐらいならとか、自分で片付けた方が楽に思う事って多くないですか。
なんて言っている僕自身もその思考は強い方ですね。人の事をとやかく言えません。

まずは相手に伝えてみましょう。
お互い様、です。
話し合うことによって、お互いにちょうどいい落とし所がみつかるはずです。
もちろん、自分が言われて嫌だなって言い方は関係を悪くします。
どうしても我慢の限界を越えてしまった後には自然とキツい言動になってしまいます。
それは仕方ないことです。
だって、限界越えちゃってますから。
ですから、あえて意識して自分が言われて嫌ではない話し方で伝えてみましょう。
理想は、思った時に、短く端的に用件を伝える、です。

遺伝か環境か

個人的意見ですが、血液型で性格判断というものがどうも苦手です。
人をたった四種類に分けてしまうのって傲慢な気がしてしまってあまり好きな考え方ではありません。
統計学的な考え方ですから、それを考慮していればいいんですが、どうもそれを根拠に人付き合いしている人の話にはどうしても反発心が生まれてしまいます。
性格は遺伝する、というのもどうもダメですね。
生まれた時にすでに決まっているなんて、面白味も何もあったもんじゃないなんて考えてしまいます。
ですから、僕は環境が人を形成するって昔から考えているんですよね。
そこから何を学び、何を信じ、どのように感じ、どういった行動をするか、
各々違うからこそ、色々な可能性があって面白いんじゃね、って思っています。
人は自ら選択し、成長するからこそ面白いと考えていますね。

ですが、ちょっとした話しを聞いて思わずその考え方が揺らいでしまいました。
余談ですが、自分が信じている考え方が揺らぐ体験ってのはとても重要です。
新しい可能性、新しい考え方を獲得できるチャンスなんです。
レベルアップなんていうと語弊があるかもしれませんが、間違いなく考え方の幅が広がり、視野が広がります。
個人的体験ですと、自分の今まで信じてきた根っこの部分がぐらんぐらん揺らぎまくり、自分にとっての正解が分からなくなります。
で、最終的に、今まで否定してきたものを
”それもありじゃね”
と思うようになりますね。軽薄に聞こえるかもしれませんが、あくまでも個人的意見、感覚ですんでそれを考慮して頂ければ幸いです。

話しが逸れてしまいましたが、どのような話しを聞いたかというと、
その人は、子供と一緒に過ごした期間は一年と半年程だったそうです。
それからは全く子供と会う事もなく、十数年過ごしていました。
その後色々あって、別れた奥さんと連絡をとるようになり、子供の話しを聞いたそうです。
その感想が、
”え、それって俺じゃね”
だったそうです。
奥さんも元々同意見だったようで、
”まるで誰かさんみたいじゃない”
だったとのことです。
二人とも同じ人物を想像していました。

その話しを聞いて、
”環境じゃなく、遺伝なの”
と、考えが揺らいでしまいました。
十数年かかった話しですので、重みがあり、簡単に否定もできません。

ですが、否定する必要はないのかもしれません。
あった以上、それは確実に存在しているからです。
ですから、
”それもありじゃね”
でいいのかな、なんて考え直しました。
流石に時間はかかりましたが・・・。

まあ、同じような思考を学習したから同じような感情が出て、同じような行動をするって考えもできるんですが、それで否定してしまうってのもまた、もったいないですよね。

そこまで思考で考えてみると、色々とごちゃごちゃとしてしまいます。
どこまでいっても際限なくなっちゃいます。

で、結局、頭で考えるんじゃなく、心で感じろ、なんてどっかで聞いたような言い回しに落ち着いちゃうんですよね。

何事にも目的がある

ルール、決まり事って好きですか?
なんて聞かれて好きって答える人ってそれほどいないんではないでしょうか?
まず、質問のニュアンス的に否定的答えを期待している気がしちゃいませんか?
だからなんとなく、流れを読んで否定しとこっかみたいな感じで答えちゃうとこってありませんかね。
まあ実際、書いてる本人である僕自身が認めてますからその通りなんですが・・・。
あとはまあ個人的に他人に縛られるってあまり好きな人っていないような思い込みですかね。

少し脱線しちゃいましたが、本題に戻すと、ルールとか決まり事ってめんどいってどうしても思っちゃうんですよね。
なければなくてもいいものもあるとは思うんですが、それはあくまでも個人的見解であって、ルールを設定した側にはもちろん、目的があったはずなんです。

そもそも何も問題がなければ、ルールとか決まり事って必要ないから存在すらしないんではないんでしょうか。
よくいう、良心、道徳心、一般常識に頼るみたいな感じですかね。
まあこれも個人的見解ですが、その考え方も後々は揉め事を誘発するとは思うんですが・・・。
人それぞれ価値観違いますからね。

で、結局のとこ、守れない、トラブルが多い等々でルールとか決まり事ができちゃうわけなんです。
仕方ないことなんですよね、めんどい事なんですけどちゃんとした目的があるんです。
当たり前すぎて意識すらしないですが、交通ルールとかそうですよね。
となると、守りさえすれば問題は起きないはずなんです。
大事なんですよね、ルールとか決まり事って。
めんどいですけど。

さて、実はこれを言いたかったのですが、めんどくさい人っ周りにいませんか?
本人は自覚できませんが、他人からみるとそう感じる人っていますよね。
という僕もめんどくさい人間だと自覚しています。まあ自覚してますんで許してねってとこですかね。
その人にはその人なりのルールとか決まり事があるんです。
というか、それがなければその人は困ったことになっちゃうんです。
ですから、仕方ないことなんです。

そう考えたら、少しだけ許せちゃう気になりませんか?

誉められると感謝の違い

個人的なことですが、誉められる事が実は昔から苦手です。
自分にとって、当たり前の事を、当たり前にしてるのに、なぜ誉められなければならないのか、どうしても根っこの部分で分からないからです。
自分がやりたいことを自分勝手にやってるだけなのに、
「偉いねえ」
なんて言われるとどうしても反発心が出てきます。
”いやいや、偉いことなんか、何もしてないし”
と、思った通り反論したり、
”ありがとうございます”
と、社交辞令で交わしたり、
おちゃらけた態度を取ったり、と使い分けています。

まあ、誉めるという行為事態が、相手主体の行為ですから仕方ないことなんですが、やはりどうしても苦手ですね。

ですが、感謝の言葉は僕にとってはとても嬉しいものです。

「話してて、楽になった」
「頭痛も収まったし、なんか重たいものが取れた気がする」

高校時代から通っている美容院の先生から言われました。

カウンセラーとして、クライエントさんに言われるのも嬉しいものですが、プライベートで言われるのはまた格別ですね。

僕にとって、カウンセラーになってよかったなあって思えた一日でした。