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時事ネタ

名古屋市 小学校部活廃止へ

名古屋市教委は、教員の負担軽減のため、小学校の部活動を2021年3月末に廃止する。
教員が指導する現在の部活動の代わりに、教員OBらを指導者として活動する場を新たに設ける意向。

名古屋飛ばしとかなんだかんだ言われること多いですが、これはとても素晴らしい取り組みだと個人的に思い、こらむで早速書かしてもらいました。
何十年も続く習慣というものは、それがまるで当たり前のように錯覚をしてしまいますが、それは錯覚であり、もちろん当たり前のことでもありません。
業務ではなく、自主的活動として指導する、そんなバカな話しあるわけないです。
教員の負担が増えるのは至極当然です。
仕事として給料がでるならいざしらず、全く出ないのに負担だけさせる、
誰かの犠牲の上に成り立っている幸せなんて、破綻しないわけありません。

このような取り組みができる名古屋市、見直しました。
どこかの団体も見直してもらいたいものです。
叩かれるのには、少なからず理由がありますから。

もちろん、やりたい人は自己責任において”勝手に”参加するのは問題ではないんではないでしょうか。
それはその人の責任においてやるわけであって、強制ではないですし。
どちらにおいても、強制は負担になります。
良いことも悪いことも両極にあるだけで根本は同じですから。

 

頭痛の日

本日、二月二日は頭痛の日との事です。
幸いな事に、僕自身は頭痛持ちではないので、悩まされる事はないのですが、頭痛持ちの方にとっては本当に辛いですよね。
身近な人間が二人ばかり頭痛持ちだったので、頭痛に悩まされるしんどさは多少は分かります。
こう言ってはなんですが、逆説的に当たり散らされる苦しみの方は、心底身に染みて分かります。

ですから、こんな日だからこそ、考えてみませんか?

どうしてなんだろう、と。

極論ですが、頭痛という結果がある以上、なにかしらの原因はあるのではないでしょうか。

もちろん、大前提としてお医者さんに診断してもらうのは絶対です。
でなければ、ひょっとかしたら、病気の可能性を見落としてしまうかもしれないからです。
素人判断程、怖いものはありません。

医療の専門家である、お医者さんに診断してもらって、病気の可能性がないという診断結果が出たなら、原因不明なんて言われてしまうかもしれません。
ですが、それはあくまでも、医学的臨床データによってのみです。
ですから、病気の可能性はなくなった、と考えましょう。

原因不明ではなく、原因を特定できない、だけなんです。

なら、特定してみませんか。

だって、苦しいの、痛いの、嫌じゃないですか?
頭痛のせいで色々犠牲にするの、疲れませんか?
頭痛で苦しいのに、苦しさを理解されないの、辛くないですか?

何かしらのストレスかもしれないし、歯痛かもしれないし、肩こりかもしれないし、身体のいがみかもしれないし、緊張かもしれないし、原因の可能性は色々あると思います。
ですが、あなたの頭痛の原因は何かしらあるはずです。
頭痛の日だからこそ、あなたの頭痛と向き合ってみませんか?
原因と向き合って、対策を立て、結果を変えてみませんか?

頭痛に悩まされない、これからの生活を想像してみてください。

動かなければ結果は変わりません。

何事にも言えますが、結果を変えるのは、動くあなた自身です。

仏の顔も三度

昔話もそうですが、昔から残っているものには言葉一つとっても含蓄があるものです。

”どれだけ穏やかな人でも道理に合わない事が重なれば仕舞いには怒り出す”

ですから、仕方ないんです。

道理に合わない事をされて怒っても仕方ないことなんです。

怒るという行為に罪悪感を感じてしまうかもしれませんが、

道理に合わない事をする方が元々おかしいんです。

人のせいにするのではなく、

まずは自分の行動を見直してみてください。

自分の行動が道理に合っていないなら矛盾が必ず生じます。

人の振り見て我が振り直せ、といいますが、

つまり、他人であればあるほど冷静に見えるものなんです。

本人以上に・・・。

あなたの行動は道理に合っていますか?

道理に合っていないなら、怒られても仕方ないんです。

道理に合っていないのにそのままにしていませんか?

そのままにしているから、怒られても仕方ないんです。

仏の顔も三度、ですからね。

#東北でよかった

以前もこらむで書いたような気がしますが、言葉というものは一度発せられると取り消せません。
僕はこらむを書くときは、ホント何度も何度も書き直したり修正ばっかです。
考えてる事をこらむとして文字に起こすだけなのに、です。
ですから、本番一回切りの言葉というものは、それだけで自分でも思わぬ取られ方をされるときがあります。
で、#なしの今回のタイトルです。
意味的には首都圏でなくて良かったということでしょうが、だからといって見過ごせる発言ではないでしょう。
立場が上になればなるほど、自分の発言が与える影響を考えなければなりません。
辞任も仕方ないでしょうね。

さて、それでは今回のタイトルです。

素晴らしい思考ではないでしょうか。
ネガティブキャンペーンではなく、上手に言葉を使って、全く違う意味で言葉を使う。

そして、行動し、大きな動きを作る。

それはそれ、これはこれ、
あなたはあなた、わたしはわたし、
違う人間だから、違って当たり前。

見習うところがたくさん、たくさんあると思います。

選択は後悔を含む

何かを選ぶということは、何かを選ばないということです。
そこには後悔は付き物だと思います。
あの時あっちを選んでいれば今頃・・・なんて後悔したことってありますよね。

誰だって何かを選択して、そして選ばなかった事を後悔するものなんです。

問題が大きかろうが小さかろうが、それは些細な問題です。
悩んでいる以上、その人にとってそれは大きな問題なんです。
たいした問題ではない、なんて本人がいうのであればそうなんでしょうが、他人が判断するものではありません。
選ばれなかった方を支持していた方は、それみたことかと言いたい気持ちも分からなくはないですが、そんなあなた自身も選択している以上、同じ事をしているはずなんです。

本人の問題は、本人だけのもの。
後悔も本人だけのもの。

それをそのまま、受け止めてあげましょう。

予言の自己実現

予言の自己実現という概念があります。予言というとなんか物々しいイメージですが、簡単にいうと、他人の言葉に乗せられるってとこですかね。

例えば、お医者さんが処方した薬がただのビタミン剤でも、個人によっては思わぬ効果をあげるなんてこともあります。個人差を生じさせるのは受け取り手次第なんですよ。自己実現ですからね。

誉められて伸びる、なんてよく言われますが、誉められることによって自信を持ち、さらに自身が成長していく、それもまた自己実現です。

とまあ、良い方に働くのもあれば、逆もしかりです。悪い方に働くのもあります。

あぁやっぱりね、なんて後で言われちゃうのが悪い方ですね。悪い予言を成就させちゃってますから。悪い評価だと、自信喪失しちゃてどんどんその通りに自己実現しちゃいます。

どうせ同じ自己実現なら、悪い予言を変えたりませんか。他人の評価なんてあとからついてくるものですし、いちいち気にしてたら切りがありません。全部同じになるなんてことはありえません。必ず反対意見は出ているはずです。バランスを保つために。ただ、それを見落としているだけです。

自信喪失しちゃうとオドオドしたり、ビクビクしたり受け身に回っちゃて自ら行動できなくなっちゃいます。まずはできることをちょっとずつやってみましょう。マイナスからプラスに転じるのは思ってる以上に難しいものではありません。できたというちょっとした自信さえあれば、あとは自己実現あるのみです。

切り替えも必要(落選運動)

話しが通じない相手はいます。
そんな相手に対してどう接すればいいんでしょうか?

まずは、いかに自分が迷惑しているか相手に話します。

相手が気づいていないだけかもしれないからです。
気づくことによって、反省して態度を改める可能性があるからです。
それで、目的は達成です。

では、それでも態度を改めない時はどうしたらいいんでしょうか?

最終的に、こちらが考えを改めなければならないでしょう。

変わってくれる、そんな期待をもっている自分の考えを。

“落選運動”

落選して、落ちてみなければ反省できないでしょうから。

人が変わるには、大きな出来事が必要です。
それを、運動として、意見として選挙で示す。

そして、反省してもらい、変わってもらう。

未来思考であり、より建設的ではないでしょうか。
素晴らしい考えだと、個人的に思います。

信念は行動に現れる(強行採決)

遂に行動を起こしちゃいましたね。
あんな国会の現状を見て、子供達に何を教えれるというんでしょうか。

100時間の時間を使って議論を重ねてきた、国民の理解を得る事は難しい。

それはそうですよね、招致した専門家が違憲って回答しているんです。
それなのに押し通す。

話し合いもなにもあったものではありません。

理解を得れないという答えが出た。
だから、強行手段で決めてしまえ。
長い目で見れば、日本の為になる法案だ。
今やらなくて、いつやるんだ。

時として、誤った信念程、強固な行動に出ます。
自分が正しいと考えていますから。
聞く耳もありません。

本当に怖いことです。

フィギアスケートの中継を見て

最近、少しだけ生活スタイルが変わりまして、テレビを見る時間が増えました。
以前は、全くと言っていい程、テレビを見ない生活パターンでしたね。
で、フィギアの試合をテレビで見ていました。

見られていた方は、本当にビックリしたんではないでしょうか?
僕も他事をしながらテレビを見ていたんですが、思わずテレビに釘付けになってしまいました。
羽生選手と中国の選手が、試合前の公式練習で衝突してしまったんです。
激突といってもいいかもしれません。しばらくの間、起き上がることが出来ない羽生選手の状態が衝突の激しさを表していました。

テレビでも言っていましたが、公式練習の6分間の間に、希に今回のような選手同士の衝突はあるみたいですね。
ただ、今回のケースは今までと違っていたみたいです。

今までの選手は、試合を棄権していたそうです。
それはそうですよね、今から試合というのに、怪我をしたわけですから。
事実、羽生選手と衝突した中国の選手も、最初は棄権と出ていました。
それほど、フィギアスケートという競技は激しいスポーツなんでしょう。

ところが、再開された公式練習に、当の羽生選手が出てきたんです。
今までとは違うケースです。
もちろん、そんな激しい衝突の後ですので、それ相応の滑りしか出来ていませんでした。
でも、滑り終え、支えられながら、フラフラの状態で控え室に戻っていきました。
もちろん、試合に出るためにです。

試合が始まり、羽生選手の出番かと思いきや、棄権したはずの中国の選手がリンクに出てきました。
公式練習もせず、棄権と出ていたんですが、試合に出場するとのことです。
とても試合が出来る状態ではなかったんでしょうね、見ていて痛々しい状態でした。
今まで知らなかったんですが、回転技の着氷にかかる衝撃って、体重の三倍だそうです。
それは飛べるわけないですよね。
最初は棄権を受け入れ、直前の練習もしない状態で試合に出場したので、仕方ない結果だったのではないでしょうか。

羽生選手の演技が始まりました。
あんな衝突の後の演技です。
何回も転倒しましたが、鬼気迫る演技で、圧倒されました。
体ももちろん、精魂も使い果たした状態だったんでしょうね。
演技が終わった後、支えてもらってもまともに歩けない状態でした。

結果は二位でした。
あの状態であれだけの演技をするなんて、本当に凄いと素直に思いました。

さて、長くなっちゃいましたが、ここからが本題です。
今までと同じ事(衝突)が起こったのに、結果(出場)が違いました。
それだけではなく、それに相応しい結果(二位)もついてきました。
何が違ったんでしょう。

もちろん、人が違うから選択も違うというのは、至極当たり前です。
では、羽生選手と今までの選手とは、何が違っていたんでしょう。

おそらく、思考が違っていたのではないでしょうか。
その思考も、かなり強固な思考です。
強固な思考であるがゆえに、二位という相応しい結果もついてきました。
強固過ぎる思考といっても、ひょっとかしたら過言ではないかもしれません。
そうでなければ、今までと同じ棄権というケースになっていたと思います。
例え出場したとしても、その状況に相応しい結果になっていたでしょう。
中国の選手がそうであったように。

これは、どちらがいいか悪いかではありません。
どちらでもいいんです。
どちらでもいいんですが、ただ、強固な思考というのは、少なからず周りに影響力を与えます。
現に、賛否両論になっています。
ですが、それはあくまでも、周りの評価です。
本人にとっては、自分の目的の為に行動しただけなんです。
例え後悔する結果になったとしても、納得できているならそれでOKなんです。

願わくば、一日も早く怪我を直して、また素晴らしい演技を見せてもらいたいものです。

立ち止まる時、立ち止める時

週末に、新聞に乗ったある記事が気になりました。
どのような記事かは、あえて記載しませんが、その一部分だけ記載させてもらって、ちょっと考えてみたいと思います。

"集落の人に「殺していいか」と確認した上で、おりで捕まえて殺すことにした。"

起こしてしまった出来事は、なくすことはできません。
過去は変える事は出来ないからです。
ですから、何かしら決断して、行動に移す時は、事が大きければ大きいほど、自分一人では行動に移せません。
どうしても、迷いが生じるからです。
もちろん、事の大小は個人個人によって違います。
自分が決断できる範囲なら、迷うことなく行動に移せます。
自分が決断できる範囲以上ならどうするのか?
記載させてもらったように振る舞う事が多いです。
つまり、他人に相談した上で、"許可"をもらって行動に移すんです。
"許可"をもらって、と書きましたが、ここは一番食い違うとこだと思います。
つまり、水掛け論に発展する可能性が高いです。
事が大きいだけに、責任を負いたくないからです。
相談する方も、相談を受けた方も、お互いに、です。

では、どうしたらいいんでしょう?

まずは、立ち止まりましょう。
少なくとも、一人で行動に移せない事を、しようとしてるという自覚をもちましょう。
立ち止まる時、今がその時かもしれないと、今一度、よく考えてみましょう。
本当に、自分は自分自身の行動に責任が取れるのかどうか、冷静になってみましょう。
確認しなければ行動に移せないなら、尚更です。

それでは、周りの人はどうしたらいいんでしょう?

非常に見極めが難しいと思います。
自分の良心に従い、責任を持てるなら、"許可"をしてもいいんではないでしょうか。
ただし、巻き込まれるかもしれないという自覚も必要です。
自分が‘許可”をしたという”行為”に責任を持つ、自己責任を念頭に置いとかないといけないでしょうね。
そこまで責任をとれない、そんな時は、相手が自分で責任を取るように促しましょう。
自分の行動に、自分で責任を持つ、相手に自律を促します。
自分の良心に従い、どうしてもダメなら、その行動を立ち止めましょう。
それでも立ち止まらないなら、ここでもまた、自分で責任をとる、自律を促しましょう。

さて、立ち止まる時を見誤ると、どうなるのか?

行動はエスカレートするケースが多いと思います。
どうしてか、それはどこまでいっていいのか判断つかなくなっちゃうからだと思います。
なぜなら、既に、自分の判断基準を超えてしまっているからです。

この記事に関して記載させてもらった部分は、立ち止まる時だと僕が感じた部分です。
ですから、その後ももちろんあります。
その後の行動が問題になり、新聞記事になってしまったわけです。
確かに、語っている事は正しいのかもしれませんが、行っている行動とはかけ離れています。
行った行動を正当化できていない、なぜ正当化できないのか、その点を今一度、考えてもらいたいものです。