free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

愛知県一宮市今伊勢町新神戸
郷浦11-1明和ハイツ203号
                  TEL.0586-43-0848

対人関係

頭痛の日

本日、二月二日は頭痛の日との事です。
幸いな事に、僕自身は頭痛持ちではないので、悩まされる事はないのですが、頭痛持ちの方にとっては本当に辛いですよね。
身近な人間が二人ばかり頭痛持ちだったので、頭痛に悩まされるしんどさは多少は分かります。
こう言ってはなんですが、逆説的に当たり散らされる苦しみの方は、心底身に染みて分かります。

ですから、こんな日だからこそ、考えてみませんか?

どうしてなんだろう、と。

極論ですが、頭痛という結果がある以上、なにかしらの原因はあるのではないでしょうか。

もちろん、大前提としてお医者さんに診断してもらうのは絶対です。
でなければ、ひょっとかしたら、病気の可能性を見落としてしまうかもしれないからです。
素人判断程、怖いものはありません。

医療の専門家である、お医者さんに診断してもらって、病気の可能性がないという診断結果が出たなら、原因不明なんて言われてしまうかもしれません。
ですが、それはあくまでも、医学的臨床データによってのみです。
ですから、病気の可能性はなくなった、と考えましょう。

原因不明ではなく、原因を特定できない、だけなんです。

なら、特定してみませんか。

だって、苦しいの、痛いの、嫌じゃないですか?
頭痛のせいで色々犠牲にするの、疲れませんか?
頭痛で苦しいのに、苦しさを理解されないの、辛くないですか?

何かしらのストレスかもしれないし、歯痛かもしれないし、肩こりかもしれないし、身体のいがみかもしれないし、緊張かもしれないし、原因の可能性は色々あると思います。
ですが、あなたの頭痛の原因は何かしらあるはずです。
頭痛の日だからこそ、あなたの頭痛と向き合ってみませんか?
原因と向き合って、対策を立て、結果を変えてみませんか?

頭痛に悩まされない、これからの生活を想像してみてください。

動かなければ結果は変わりません。

何事にも言えますが、結果を変えるのは、動くあなた自身です。

答えはそこにある

一方的な関係というのは成り立つものなのでしょうか?
個人個人で意見は違うのでしょうが、
僕は個人的には成り立たないと思います。
というか、僕は成り立たせないですね、あえて。

とは言っても、仕事ならある程度仕方ない面はあるとは思います。
ただ、あくまでもある程度です。
ある程度を超えたらどうなるのか?

我慢の限界、というものですね。
溜めてただけ、反動は大きくなります。
この世の中、そんなケース、ホントありふれていますよね。

なら、仕事とかしがらみがない場合はどうなんでしょうか?

仕事だから仕方ない、しがらみがあるから仕方ない、
なんて思い込むものがない状態です。

ある意味、地盤がない状態なわけです。考え方によっては。
それはもう、悩むわけです。
悩みを作ってしまうわけです。

では、どうすればいいんでしょう?

まずは、整理してみましょう。

誰かに話しを聞いてもらって、客観的に整理してもらうとか、
人によっては、話す事によって、客観的に整理できてしまうとか、
時系列でメール等のやり取りを見直すとか、
色々な方法はあるとは思います。

さて、これって一方的じゃないのと気づいたとしても、
だからといって、どうこうできるとは限りません。

踏ん切りが必要なんです。
踏ん切りをつける為に、一方的だと思える何かを聞いてみるんです。

一方的な関係を作る相手です。
踏ん切りをつける確証的な答えをくれるはずです。

さて、その後はどうしましょうか?
一方的な関係を、一方的に断ちますか?
それもありっちゃあありだと思います。
でも、それって、相手と同じことをしちゃってますよね。
なんかそれって悔しくないですか?

どうせなら、言いたい事を言って、スッキリするのが理想だと思います。
といっても、あくまでも理想ですので。
理想はあくまでも理想です。
無理する必要なんてこれっぽっちもありません。

そもそも、散々無理をしてきたんですから。
肩の荷を降ろしてほーっとしちゃって下さい。

 

傾聴とカウンセリングの違い

久々に、知り合いと飲みに行きました。
そこで指摘されたのですが、
”なんで?”
という概念が、どうも僕には欠けているようです。
会話の流れで、
”どこどこへ行く”
って話しになったのですが、それに対し、僕は
”お祝いしなきゃ”
と返事したのですが、
どうも、その流れは不自然らしく、
”どこどこへ行くんよ”
”なんで?”
”こうこうこうで、どこどこへ行くんよ”
”それじゃお祝いしなきゃね”
と、なるそうなんです。

結果的には、お祝いに近い内容なのでいいのですが、
相手からしてみると、
””なんで?”がないのに、どうしてお祝いって返事になるの?”
だそうです。

指摘されて初めて考えてみましたが、
”あ、そんな概念ないわ”と思い至りました。
いいのか悪いのか分かりませんが、ある程度の知り合いなら、ある程度行動も推測できますよね。
推測できる以上、”なんで?”ではなく、”へーそうなんだ”ぐらいなんですよね、僕の中では。
だからそこから推測して、今回は
”お祝いしなきゃ”
と返事したわけなんです。
指摘されなければ全く気づきもしないことなんですが、
いざ知ってみると、我ながら面白いものですね。

とまあ、こんな感じでスタートしたわけなんですが、
タイトルを見てもらうと、なんかえっらい難しい内容だと思われるかもしれません。

いやいや、全く違いますので。

本当に、基本さえ押さえてもらえれば、
ただの飲み会も悩みの解決の糸口に結びつくかもしれません。

では、その違いから。

傾聴というのは、相手の話すことを、そのまま否定もせず、受け入れる行為です。
老人ホームとかでは、傾聴ボランティアの方々が活躍されています。
ただ、話し相手になってもらう、否定もされず、ただ、そのまま受け入れてもらう。
ただ話しを聞いてもらえるだけでも、すごい安心感があります。
自分自身を受け入れてもらえた、肯定してもらえた、たったそれだけでも素直に嬉しいものです。
聞き上手、そんな人って周りでも人気ありませんか?
そのスペシャリストが、傾聴ボランティアの方々です。
しかし、相手が何か悩みがあったとしても、解決に結びつく可能性は低いです。
まあ、元々悩みの解決が目的ではないですからね。
でも、可能性が低いだけであって、解決に結びつくことももちろんあります。
あえて、勝手にと書いておきますが、話しながら勝手に解決してしまう、そんな方々もいます。

さて、一方カウンセリングというものはどういうものなのか?

まず、前提として、傾聴は基礎です。
傾聴を心掛けて相手の話しを聞いていると、話しの中に”矛盾”が生じているのが分かります。
傾聴だけなら、それはそのまま受け入れます。
ですが、カウンセリングではそれをそのまま受け入れません。
その矛盾こそ、問題のキーポイントとなるからです。
悩みがある以上、何か問題があったわけです。
となると、何かが流れを阻害しているから問題になったわけなんです。

問題にもよりますが、話しの中で矛盾は何か所も出てきます。
そこを相手に指摘してみるんです。
相手が話した内容のままに。
面白いことに、矛盾を指摘してみて話しを促してみると、
まるで関係ないと思える話始めの、最初の内容までつながったりします。

とまあ、あくまでもこれはカウンセラー目線での話しですが、
飲み会は飲み会、とくにこれといった療法もテクニックも使うわけではありません。
使うのは、傾聴と矛盾点の指摘。
そして、話しの促し。
たったそれだけです。
あとは相手がある時、勝手に気づいてくれます。
それはホントすぐに分かります、お互いに。
それをただひたすら待つだけです。

悩みを解決する、
いえいえ、
悩みを解決させる、
それがカウンセリングだと思います。

答えは与えられるものではなく、
答えはちゃんとそこにあるものなんです。
目を逸らさず、逸らしたものに向き合ってみませんか?

 

 

 

四つ角のコンビニにて

タイトルを見ると、まるで最近のコンビニ競争激化について書いてるみたいですが、全く違います。
と最初にお断りだけさせてもらいますね。

ただ、何気ない日常風景から少しだけ気づきを得てもらえばいいかなという、他愛ない内容です。
とはいっても、それがけっこう重要だと個人的には思っています。

なんて固い話から入らせてもらいましたが、四つ角のコンビニ、つまり信号に面してるコンビニの風景です。
僕は車通勤なんですが、いつもぼーっと考えることがあって、それがここ、つまり四つ角のコンビニの、とある日常の一コマを見る時です。
文章で起こすと少し分かりづらいかもしれませんが、コンビニから出ようとする車で、右折しようとしてただ待ってる車を、僕はいつもぼーっとしながら不思議に思うんです。

”なんで?”と。

車線をまたがないと出れないわけですから、その車はただひたすら車の流れが途切れるのを待ってるわけなんです。
で、いざ途切れたと思っても、右折して合流しようとするなら、これまた車の流れが途切れるタイミングを待たなければならないんです。
で、それを待ってると、逆の車線の流れが動き出す。
で、また繰り返す・・・。

そんな光景を、その車が合流したいだろう車線で、信号待ちしている車内からぼっと見ているんです、僕は。
”なんで?”と。
”無駄な時間を”と。

なぜ、そのように僕は感じるのか?
断言できますが、僕はそのような行動を取ることはないからです。

心理学的に大まかにとらえると、人は

”思考”⇒”行動”、”感情”か、
”思考”⇒”感情”、”行動”か、
どちらにしても、思考を元にして始まるわけです、人というものは。

同じ環境にあっても、人によって反応が違うなんてことばっかじゃないですか?
不思議でもなんでもないんです。
その環境においての、個人個人の思考が違うから、自ずと違いが出てくるわけです。
その違いを正そうなんて、できると思いますか?
自分が正しいと信じてることを、否定されて、素直に頷けますか?
僕は頷けないですね。
だって、正しいですもん、少なくとも自分の中では。

なんて事が起こってるわけです、
なんであんな行動をとるんだろうって思う相手は・・・。

つまり、思考を自ら修正しない限り、人は変わりません。
人から注意されて行動を改めたとしても、思考が変化してなければしばらくすると元に戻ります。
わかりやすくないですか?
単純に、こんな流れにそってるだけなんです。
理解できない行動をとる人ってのは・・・。

といっても、あくまでも理屈であって、それを修正するとなるとこれまた大変です。

”わかっちゃいるけど、やめられない”
以前もこらむで書いた気がしますが、なかなかやめられないんですよ、そーゆーものは。
自分の信じてきたものを、まずは疑って、そして、それを修正する。
理屈は簡単です。
ただし、できるかどうかは別問題です。
今の世の中、調べようと思えばなんでも調べられます。
は、言い過ぎかもしれませんが・・・。
まあ、ある程度の情報は調べられますよね。
で、調べて実際やってみて、できると思いますか?
できないんではないでしょうかね、大抵の人は。
だって、自分の信じてきたものを否定するんですよ、自己否定ですよ。
そんなこと、よっぽどの事、よっぽどの覚悟がなければできるわけないですよ、一人では。
まあ、よっぽどの事があると、改めざる得ないですけどね・・・。
できるなら、そんなよっぽどの事が起こる前になんとか出来るならいいんですが、暗に匂わせてるように難しいです、実際は。
ですから、”後に悔やむ”、つまり”後悔”することばっかなんですよね。
まあ、そこで”思考”を修正する機会を得るわけですから、悪いことばっかではないんですけどね。
でも、それを乗り越えたもの、”新しい思考”は強いものです。
ただ、本当に”正しい”かどうかは、これまた別問題ですが・・・。
まあ、本当に”正しい”ものってのがイマイチピンときませんが。
もちろん、一般常識はわきまえてるつもりですので、その意味の”正しい”ものは理解してますよ、念の為。

とまあ、かなり、びっくりするぐらい脱線しましたが、修正せず、続けさせてもらいますね。
(修正したくないぐらい気分がのってしまったので・・・。まあこれも一つの例だと思っていただければなあって)

ではでは、あらためて、
僕の今回のボーとしてる時に、僕の中で起こってるものは、

”無駄な時間を過ごしたくない”⇒”左折して信号を使う”
僕ならね、となるんですよね。
だって、どう考えても、僕の中では、確実に早いわけです。それを使わない手はありません。
だから、”無駄な時間を”
となるわけです。
ですから、この車の行動が理解できないわけです。
だから、”なんで?”
となるわけです。
感情を生じさせるなら、僕が取らないと断言した、この車と同じ行動を取るなら生じますかね。
”イライラ”という感情が。
まあ、取るわけないですがね、何度も言いますが・・・。

不確定要素に頼るぐらいなら、確実な方法を取る。
急がば回れ、ですかね。
なんか改めて文章に起こしてみると、硬いなあって我ながら思っちゃいますが・・・。

とまあ、何気ないこんな日常の一コマでも、突き詰めると色々な発見があるものです。
で、案外こんな”思考”パターンは、どんな場面でも使われています。
ちなみに僕は多様しています。

何かをを見て、ぼーとしてる時間を、有効に使ってみませんか?

邪魔をするもの

昔の話しですが、ある自動車学校の校長先生と会う機会があって、その人の色々な話を聞きました。
その方はホント多趣味な方で、バイクもですが、ラリーのレースにも出ておられたとの事です。
その方との話の中で、よく覚えていることがあります。
車で事故を起こした時はハンドルを離せ、です。
車は、回転していても自然に戻るそうなんです。
それを妨げるのが、つまりハンドルを握ったままの人だそうです。
自然に戻ろうとしているのに、その動きを逆に邪魔してしまう、そんな気はないのに。
だから思い切ってハンドルを離せ、なんだそうです。

自然の摂理ではないですが、物事は落ち着くとこに落ち着くものではないでしょうか。
落ち着くとこに落ち着かなければ、なんか居心地が悪い、
そんなことが最近は多いよう気がします。

つまり、ハンドルを握ったままの誰かがいるんです。

自然に戻るのを、戻らないようにしてしまう。
そんな流れは不自然ですから、歪みができます。
歪みはやがて大きなうねりになります。
生じた力は自然には元に戻りませんから。
元々、不自然が生じた力でもありますから。

大きなうねりも、力を出し切ると、穏やかになります。
まるで、何事もなかったかのように。

同じことを繰り返しているな、
そんな気がしているなら、
ハンドルを握ったままなんです。

思い切ってハンドルを離してみませんか?
自然に戻るものですよ。

まずは自分を知る事から

”自分を知る”
なんか言葉にするといい感じに聞こえますが、実際はかなりキツイ体験をする事になります。
カウンセリングって楽なイメージがあるかもしれませんが、実際体験するととんでもなくシンドイ作業になります。
悩みがある、つまり問題があるわけです。
問題視しているのは自分です、つまり自分にも問題が少なくともあるわけです。
気づかないようにしていたのに、
自分の嫌な部分と直面し、
それによって起こっていた問題に気づき、
その問題に真摯に向き合い、自ら解決する、
言い訳もできません、
だって、今まで言い訳して問題になったわけですから。
人のせいにもできません、
だって、今まで人のせいにしてきて問題が解決しなかったわけですから。

問題に感じているのは自分なんです。
それをどうにかしたくて悩んでいるんです。
なら、今までと同じ事したって解決するわけありません。

とまあ、言葉にしてみてもピンとこないかもしれませんので、
僕の実体験でどのような流れになるのかちょっと書いてみたいと思います。
ただ、僕個人では別に問題視しているわけではないので
問題の解決とは違っていることだけ理解してもらえば幸いです。

さて、出来事としては
理屈は分かるのだが、どうしてそれが解決に結びつくのかどうしても僕には理解できない、
なんて事をつい最近体験しました。
言ってる事は正論なんです、
むしろ正論を通り越して綺麗ごとにしか僕には聞こえません、
そして、僕はどんな行動をとったか、
逃げるようにその場を離れました。
もうホント一刻も早く、その場から離れたい、ただそれだけでしたね。

これは本当に正しい事なんだ、
なんて信じ切っている人達と対面する機会が何度もありましたが、
その時も逃げるようにその場を離れました。

僕は何回も同じことを言いたくないんです。
で、改善が見込めないと分かった時、いつも逃げ出すんです。
理解できるまでとことん付き合う、そんな考えは全く持ち合わせていないですし、むしろ持ちたくない思考ですね。
ある程度はいいんですが、度を超すと傲慢としか思えないんです。
他人がするにしても、自分がするにしても、どうしても。

あ、もう何言っても何度言っても無駄だ、
そう感じるんです。
なら、逃げよう、一刻も早く立ち去りたい、
だって、無理ですわ。
そんな流れが僕の中にあります。

で、せっかく逃げ出したのに、追っかけられ、
自分の主張を押し付けられるとイライラするんです。
いやいや、こっちの主張を受け入れんくせして何言っとるんや、と。
おかしいんやないか、と。

見捨てる、そんな言葉が当てはまるかもしれません。
いえ、綺麗ごとですね、
長年迷惑をかけられ、関係を完全に断った人がいますから、見捨てる、ですね。

とまあ、”自分を知る”という流れはこんな感じですかね。
出来事があり、それに沿って自分の中でどんな事が起こっているか、
それに向き合うわけです。

で、最初に書いた通り、僕は自分の中のこの流れをあまり問題視していないので、
問題としてみていません。
ですから、もちろん対策をとるつもりもありません。
だって、問題ではないですから。

他人が見て問題ととらえても、
自分が問題と見なければ、問題にはなりません。
ですから、必然的に何も変わりません。
自分が問題と見て、初めて問題になるんです。

そんな流れも僕の中の流れに触れられていますが、
それは当然なんです。
だって、これは僕の考えだからです。
そりゃ、当たり前ですよね、僕自身の考え方ですから。

ですから、正しい答え、正しい考え方なんてないんです。
むしろ、正しい答え、正しい考え方ばっかなんです、世の中。
だからぶつかり合っちゃうんです。

ですが、問題視していないとはいえ、カウンセラーとしては弱点でもあります。
ですから、弱点を知る為にも、”自分を知る”というのはとても大事な事なんです。
自分の弱点を知っていると知っていないとでは雲泥の差があります。
もちろん、カウンセリングの場ではそんな流れはないですので。
一応、念の為。

 

間違ってないなら許さないもあり

”喧嘩売ってるのか(怒)”
ある人の話しですが、60近い職場の人に言われたそうです。
もちろん、その人にそんなつもりは全くなかったので、逆に引いて冷静になったとのことです。

ちゃんと本人の許可ももらいましたので、ここに書かしてもらいますが、
内容を聞く限り、僕も個人的に思うところがあるのでここに書かしてもらいます。

事の発端は、元々の職場のルールがあって、それをその60近い相手の人が自分の都合で勝手に守らず、
結果、取引先に商品を届けた時に商品が全滅していた、とのことです。
それもクレームは取引先の店舗ではなく、取引先の本社から直接届いたとのことです。

ルールを守らず、商品を全滅させたのに、
それでもその60近い相手の人は自分の都合を押し通し、
他人の迷惑を顧みず、頑なにルールを守ろうとしません。

その人はどうしてもそれが許せず、上司とも相談し、ルール通り仕事をしようとしたそうです。
ちゃんと上司と打ち合わせし、許可ももらってです。
ルールさえ守れば、起こるわけがないと確信していたから、とのことです。

で、冒頭のその言葉です。

その人は、心底あきれ果て、上司に言ってくれと相手に言ったそうです。

そんな相手とこれからも関わっていかなければならないのか、
本当に憂鬱になる、とその人は話していました。

さて、ここからは主に僕個人的意見で書かしてもらいます。

まずは、職場で、ましてや仕事中にそんな言動をとる相手なんて気にする必要はありません。
仕事関係の関係なら、そんな相手は勝手に自分から外れていってるわけです。
そんな人は勝手にさせておけばいいんです。

これが身内とか、親しい相手ならまた対応は違ってきますが、
そんな関係でないなら、関わるだけストレスになるだけです。

タイトル通り、間違ってないなら許さないもあり、です。
もちろん、自己責任の範疇ですよ。

大人だから許す、
それもあるかもしれませんが、
大人だからこそ許せないこともある、
と、個人的に思います。

どちらが本人にとってしっくりする考え方なのか、
選択する自由は本人だけです。
もちろん、メリット、デメリットも含めてですよ。

”あの人に限って”を”あの人だからこそ”と考えてみる

”あの人に限ってそんな事は絶対ない”
なんてよく聞いたり思ったりしたことありませんか?
僕も昔はそんな事よく思ったりしました。
でも、実際は違うんですよね。

だって、事はすでに起きちゃってるんですよ、そんなときは。

なんて身も蓋もない事を言っちゃったりしますが、実際そうですよね。

でも、そんな無理矢理納得する必要もないんですよ。
それは、起こるべくして起きてしまっただけなんです。

つまり、誰の目から見ても優等生な人は、それだけの努力をしているんです。
本当に自分自身にストイックに、です。

不平不満は必ずといっていいほど起きるものなんです。
起きなければ逆におかしいんです。
自分の思い通りにいつも物事が進むなら、不平不満はないでしょう。
でも、そんな人は周りの人が見たら優等生には見えないでしょう。
要領がいいとか、ズルいとか我が儘とかあまりいいイメージは持たれないんではないでしょうか。
でも、本人がそれでいいならそれでいいんです。
そんな人は他人の評価なんか全く気にもしてないでしょうから。
むしろ個人的には自然体でいいと思うぐらいですね、僕的には。

外面がよく、内弁慶でも別に問題はないんです。
不平不満を解消し、バランスは取れていますから。
まあ、家族は大変でしょうけどね。

外面もよく、内弁慶でもなく、誰から見ても優等生、そんな人は大変でしょう。
不平不満を解消する場がないわけですから。
この上なく、バランス悪いですよね。

ですから、起こっちゃうんですよ、つもりに積もったものがドカンと。

今まで頑張ってストイックに努力してきたんですよ。
でも、頑張れば頑張るほど溜まっていく一方なんですよ、不平不満が。
そりゃあ、ドカンとなっちゃいますよね。

ドカンとなる前に是非とも息抜きを。

夫と常に一緒 息詰まる

今回もねえねえちょっとの質問を考えてみたいと思います。
人間関係が拗れるのは関係が近ければ近いほどと念頭に置いてもらって読んでもらえれば幸いです。

夫のことを、うっとうしく感じます。
自営業の夫は二十四時間家にいるので、息が詰まりそうです。
娘二人はすでに嫁いでいるため夫との会話は少なく、テレビを見る時も別々。
私も更年期障害なのか言動にイライラしてしまい、ご主人が会社員の友達をうらやましく思ってしまいます。
こんな私は心が狭いのでしょうか。

さて、本当に難しい問題だと思います。
関係が近くない間柄なら、うっとうしく感じる相手とどのように接しますか?
なんとか上手くやっていく、なんて優秀な解答をされる方もおられるかもしれませんが、
正直、面倒くさくないですか?
ちなみにあくまでも僕個人的考え方ですが、身近でないなら関わらないようにしますかね。
だって自分自身の精神衛生上好ましくないですしね。
当たり前の事なんですが、自分を一番大事にしなければなりません。
でなければ、問題は拗れる一方です。

ですから、拗れちゃうんです、関係が近ければ近いほど。
だって、関わらないわけにはいかないですからね。

更年期障害かどうかは分かりかねますが、言動にイライラするのは普通の事だと思います。
うっとうしく感じる相手と接する時は。

ご主人が会社員の友達をうらやましく思ってしまうとの事ですが、
だからといって、自営業のご主人に会社員になってもらいたいんでしょうか。
違いますよね、今までの生活と今後の生活もありますから。
いきなり会社員になるなんてご主人に言われたら困っちゃいますよね。

となると、現実的な問題、自営業のご主人が二十四時間家にいるのは仕方ないことではないでしょうか。
それが今までとこれからの生活を支える仕事である以上。
相手が変わらない以上、自分が変わるしかありません。
というか、相手が変えれないと言い直した方がいいかもしれませんね。

この方がどのような生活パターンをされてるか分かりませんが、
自分だけの時間を作るようにすればいいのではないでしょうか。
自営業ですので、専業主婦とは思えませんが、 もしそうならパートに出るとか。
一緒に自営業をされているのなら、休みの時に習い事に出掛けるとか。

でも、ちょっとだけ考えて下さいね。
条件はお互い同じなんです。
相手も同じ思いを抱いているかもしれないんです。
というか、お互い様の可能性が大きいですが。
物事は常にお互い様なんです。

ですから、歩み寄ってみるというのもあるとは思います。
思った方が負け、なんて言葉があったかどうか定かではないですが、
思ってしまった以上、歩みよった方がいいかもしれないですね。
歩み寄る事によって、変化は起こります。

歩み寄る、会話をすることですね。
なんでもいいんです、
そのうち、言いたいことを言ってしまう、
それでいいんです。
喧嘩になってしまう。
いいんです。
といっても、暴力はダメですよ。

解決すれば、
お互いにお互いの距離感が分かります。
高望みでもなく、ないものねだりでもない、
現実に適した距離感が。

 

仏の顔も三度

昔話もそうですが、昔から残っているものには言葉一つとっても含蓄があるものです。

”どれだけ穏やかな人でも道理に合わない事が重なれば仕舞いには怒り出す”

ですから、仕方ないんです。

道理に合わない事をされて怒っても仕方ないことなんです。

怒るという行為に罪悪感を感じてしまうかもしれませんが、

道理に合わない事をする方が元々おかしいんです。

人のせいにするのではなく、

まずは自分の行動を見直してみてください。

自分の行動が道理に合っていないなら矛盾が必ず生じます。

人の振り見て我が振り直せ、といいますが、

つまり、他人であればあるほど冷静に見えるものなんです。

本人以上に・・・。

あなたの行動は道理に合っていますか?

道理に合っていないなら、怒られても仕方ないんです。

道理に合っていないのにそのままにしていませんか?

そのままにしているから、怒られても仕方ないんです。

仏の顔も三度、ですからね。