free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

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対人関係

勇気を出して言ってみる

個人的な事なんですが、長年言い出す事が出来なかったことがありました。

勇気を出してついさっきなんですが、切り出してみました。

迷うぐらいならまずはやってみる。

なんて偉そうに言っていますが、大事な事こそ切り出しづらいものですよね。

僕にとっては、切り出すのに長年の時間を要する事だったんでしょう。

あっさり上手くいきました。

だからといって、嬉しさは減るものではありません。
むしろ、長年の時間だけ、嬉しいものです。

大事な事にはハードルを実際より高くしちゃうものです。
失敗を必要以上に恐れるからです。

ハードルを上げすぎちゃっていませんか?

行動を掘り下げてみる

今夜は久々に親友達との飲み会でした。
前回からちょっと僕の周辺で色々変化があって、僕はその話しを実はこの飲み会でしか話さないんです。
自分で決めてるんでしょうね。
まるで、懺悔室みたいな感じにしてるんでしょうね、僕自身が。

で、詳しい内容は記さないんですが、改めて気づいたことがありました。

他人によく言う事って、自分自身出来てない事が本当多いんですよね。

僕がよく、自己犠牲ってありえないって言う事が多いんです。
まず自分があって、それから相手。
自分を蔑ろにするのはありえない、と。

でも、実際、しちゃってるんですよね、僕自身が。
自分でも自覚してるんですが、自己犠牲してる行動ってあるなぁって。

僕も親友達と同じ立場なら、全く彼らと同じ事を言うと思うんです。
つまり、それは違うだろ、と。
彼らが親身に話してくれると同じ事を、同じ立場なら話すと思うんです。
実際、色々考えましたから。

分かっちゃいるけど、止められない。
だけど、止めたい。
なら、簡単なんです。

止めたいって意思があるから。

でも、今のとこ、どうも僕の中の優先順位は今のままみたいでいいみたいです。

どうしてなんでしょう。

・・・

ちょっと、思い当たりました。

僕は以前、それを厳しい程、実行していたんです。
自己中って言われても仕方ないぐらい
でしたね、当時は。

でも今は一応、これ以上はダメって事を伝えてるんです。
そして、その通りにされると仕方ないかなって思っちゃうんです。
で、引き受ける。
どうも、そのラインは一般的にかなり低いみたいですが、以前よりはマシに思ってるんでしょうね。

人は嫌な思いをしたら、その行動を気づいて直します。
でも、どうも意識せず、行動を改める事もするみたいです。
長い時間をかけて、徐々に変化するんでしょうね。
徐々に一般的なラインまでいければいいかなって思っています。
じゃないと親友達に心配かけまくっちゃいますからね。

奇数だから?!

“ドリカムが昔3人だったって最近の子は知ってるのかな?”
なんて会話が出ました。

“それを言ったらポルノグラフィティだって、ELTだってそうだよねぇ”

で、ちょっと考えて、

“ひょっとかしたら、3人って数に問題があるんじゃないかな。
二人が仲良くて、一人が離れてくってあるのかもしれないよね。”

なんて話したら、納得していました。

親密になるのには、会話は欠かせません。
話し手と聞き手、やはり二人です。
カウンセリングも基本、二人です。
そういえば、一人っ子も寂しいと聞きます。

自分で話しながら、けっこう思い当たる事がどんどん出てきました。
一因としてはあるかもしれませんね。

余計な事をしない

この前の事なんですが、ある人と何気ない会話の中で、その人に聞かされた言葉があります。

“余計な事をしない”

その人はよかれと思ってある行為をしたんですが、それが相手には余計な行為だったみたいでトラブルになってしまったそうです。
その人はいい事をしたと思っていたので、人の好意を踏みにじるひどい相手だと憤っていた、とのことです。
でも、トラブルになってしまったのは事実です。
トラブルになってしまった以上、解決するしかありません。
そして、上司に言われたそうです。

“余計な事をしない”

よかれと思った好意はあくまでも自分の考えです。
相手が望んだものではありません。
なら、自分の好意は相手にとって余計な事だったわけです。
余計な事さえしなければ、トラブルにならなかった、というわけです。

それはこの人にとって、ストンと落ちた言葉だったんでしょう。
それからはこの言葉に従って行動して、この人なりに他人との付き合い方が上手くいくようになったみたいです。

こんな経験ってかなり多いんじゃないでしょうか。

余計な事をしてしまうから、問題がこじれてしまう。
余計な心配をするから、相手に苛立ってしまう。
余計な気遣いをするから、何も出来なくなって勝手にイライラしてしまう。
余計な事を考えて、今まで築き上げた関係をダメにしてしまう。
余計な手伝いをして、相手の成長を妨げてしまう。

しかし、このような問題が解決する時は、拍子抜けするぐらいアッサリ解決します。
どうしてなのか?
それは、勝手に自分が問題視してるだけだからなんです。
実際、起きてる事実としての事柄は変わらないんです。
あ、これは余計なんだと気づいた時、今までのわだかまりが驚くぐらいなくなっちゃいます。
数年、もしくは数十年のわだかまりが、です。

言葉とは力を持っています。
いい方向に働けばいいのですが、悪い方向に働いてしまう呪縛にもなってしまいます。

新しいものを手に入れた時って無性に使いたくなっちゃいませんか?
僕はしょっちゅうあります。
飽きるまで使って、やっと適度な距離感が分かります。

最初は呪縛でも、仕方ありません。
距離感を図りかねているんです。
これはこうだからと、言い訳するようになったらちょっと危険なサインです。
自分に言い訳しなければならない事は、到底他人も納得できない事が多いです。

調味料を入れて、自分好みの料理の味付けをします。
その味は、自分好みの味でしかありません。
その味付けを他人に押し付ける人ってそれほどいないんではないでしょうか。
さりげなく、脇に調味料を置いておく、そんなスタンスっていいですよね。

クラクション(スキル)の使い方

以前ある知り合いに聞いたんですが、その人は車のクラクションを鳴らさないそうです。
鳴らされた相手が嫌な気持ちになるからとの事でした。
当時はなるほどねぇと聞いていたんですが、そうかもしれないし、違うかもしれないんですよね。
確かに相手が嫌な気持ちになるかもしれませんが、それはこちらには分からない事なんです。
なるかもしれないし、ならないかもしれない、感じるのは相手の自由なんです。

嫌な気持ちになったのは、以前自分が鳴らされた時の事なんです。
自分が嫌な気持ちになったから人にはそんな気持ちをさせたくない、だから自分は鳴らさない、そんな思考の流れだったんでしょうね。

でも、いずれ葛藤が生じるんです。

誰でもなんですが、信号待ちでぼーっとする時ってありますよね。
その人の前にたまたま青信号なのに動かない車があったとしたら、その人は一体どうするんでしょう。

そのまま待つんでしょうか?
それともクラクションを鳴らしてみて、新たなクラクションの可能性を手に入れるんでしょうか?

なんてちょっと大袈裟に感じるかもしれませんが、なにげなく過ぎていく日常の中にこそ、ちょっとしたつまずきがあるんです。
その時こそ、つまずいた内容を見直すチャンスです。
つまずかせているのは、他でもない、自分自身の思考なんです。

見直せるのは自分しかいません。
自分にとって、もっとより良い方法で日常生活を送ってみませんか?

なんて、通勤途中にクラクションを鳴らされてちょっと考えてみました。
ちなみに僕は嫌な気持ちにはなりませんでしたね。

頑なには(本人なりの)理由がある

頑なな態度を取る人っていますよね。
"なんであんな頑ななんだろう、理解できない"
なんて思わず思っちゃいますよね。
でも、それってお互い様なんです。

だって、相手も頑なに拒否しているなら、こちらも頑なに言うこと聞かせようとしているんです。

こちらに理由があるのなら、もちろん相手にも理由があるわけです。
ただそれが何か分からないだけなんです。

もし、その理由を知りたいなら相手に聞くしかありません。
どれだけこちらが困っているか説明して、そして相手の頑なな理由を聞いてみるんです。
もちろん、相手も同じような手順になります。
そして、お互い歩みよれるようにして問題解決に向かいます。

どちらも困っていて、なんとかしたいという思いは共通なんです。
ただ、それが何か、お互いに理解り合えてないんです。

なんて考えてみると、歩みよってみようと思えませんか?

こちらが歩みよると、向こうも歩みよろうとします。
こちらが拒絶すると、向こうも同じように拒絶します。

どうせ困るなら、より建設的な事で困りたいですよね。

吐き出すという行為

愚痴というのは集団生活を送る上で必ず出てくるものだと思います。
どこかで妥協しなければ上手く周りと付き合っていけない事も多々あるからです。
今まで愚痴なんて言ったことないなんて人はいないんではないでしょうか?
もし、言ったことがないなんて人がいるなら、すぐにでも愚痴を吐き出してください。
愚痴を言う事は悪いことではありません。
むしろ、言わずに溜め込んで余計こじらせた方が後々面倒なことになります。

猫を飼われてる方はよくご存知だと思いますが、猫って毛玉を吐き出します。
毛玉とは、身繕いで身体を舐めた時に飲み込んでしまう自分の毛が固まったものです。
猫は自分の毛を消化する事ができません。
ですから、無理矢理吐き出すしかないんです。
毛玉を吐き出した後は、スッキリしています。
果たして、猫は身繕いを止める事が出来るんでしょうか?
猫として生まれてきた以上、身繕いをする行為が本能でしょうから止めるのは無理でしょうね。

猫って自分が吐き出した毛玉を掃除してくれるでしょうか?
そんな猫がいたら、それはそれで怖いですよね。
毛玉を吐き出すのは猫、それを掃除するのは飼い主、別々の役割なんですよね。
猫って時々甘えてくる時がありますが、ひょっとかしたら感謝を表してるのかもしれません。

愚痴、暴言、罵詈雑言、等々自分が吐き出すものは、自分の中で消化できないものです。
消化できない以上、猫の毛玉のように吐き出すしかないんです。
吐き出す人、それを聞いてくれる人、別々の役割なんです。
吐き出してスッキリしたら、それで終わりではなく、
聞いてくれた人には感謝を、聞かせた人には後でしっかりフォローをすると、
周りとの関係もそれほど悪い感じにはならないかもしれません。
何事もやりっぱなしが一番問題になりますからね。
それに、吐いた事に罪悪感を感じる自分のフォローになるかもしれません。

なんて事を、
コーヒーをおもっきしこぼしちゃって、
暴言吐きながら床掃除してる時に考えていました。
ホント暴言って出ちゃうものですよね。

目標を達成するには

目標を達成するって難しいですよね。
僕も今まで一体どれだけの目標を掲げてきたのか正直わかりません。
では、どうしたら目標って達成できるんでしょうか。

目標って、あくまでも自分で決めたものです。
ですから、それを達成するのって、自分自身に甘くなっちゃうとこあるんです。
目標を達成するまでに時間ってかかりますよね。
時間がかかるってことは、それだけ誘惑も多くなるんです。
それだけ何かを我慢しなければならないとも言い換えられるんです。

誘惑をずっと我慢するのが一番いいんでしょうが、
長い時間続けるのはなかなか難しいんではないでしょうかね。
ですから、
”誘惑と付き合っていく”
それが目標を達成するのにいい方法ではないのかなと思います。

誘惑に負けちゃったあ、なんて事、多くないですか?
でも、それって仕方ない事でもあるんです。
目標も誘惑も、どちらも自分がやりたいことなんです。
ですが、ちょっとだけ目標の方が分が悪いんです。
目標は以前からに対し、誘惑はまさに今、やりたい事なんですよね。
分が悪い目標を達成するには、うまく誘惑と付き合っていくしかありません。
うまく付き合っていくには、自分で納得してあきらめるしかないんです。
あきらめるには、"言い訳"をうまく活用するんです。

"言い訳をしない"
または、
"誘惑に負けない"
という答えもあるかもしれません。
確かにそれも考えてみましたが、どうも違うように感じます。
何かを得る為には、何かを犠牲にしてるんですが、何事にも限界はあるんです。
何かを犠牲にする時って、必ずといっていい程、言い訳をしているんですよね。
言い訳をして、自分に言い聞かせているんです。
例えば、仕事だからとか、忙しいとか、時間がないとか、今やらないととかホントきりがないです。

"仕事と私とどっちが大事なの?"
なんて聞かれた事ありませんか?
聞かれるということは、既にバランスが偏っているのかもしれません。
自分では分からない事でも、他人から見ると分かることってありませんか?
当事者って案外気づかないことって多いものです。
それと同じです。
バランスが悪いと余程の事がない限り破綻してしまいます。
自分が無理をしてるのを、止めてもらっていると考えてみて、ちょっと一息入れる。
それが自分に対する"言い訳"です。

もちろん、徹底して目標を達成出来る人は問題ありません。
その人にとっては目標を達成するのが当たり前であり、問題にすらならなかったでしょう。
なぜなら、自分にとっての優先順位がはっきりしてるからです。
疑問を感じなければ、悩むことはないんです。
ですが、結果があるということはそれに見合うだけの犠牲を払ってきたともいえます。
そこまで徹底するってすごい事だと思いますが、そうなりたいとは思いません。
それが僕にとってのバランスをとる言い訳なのかもしれませんね。

本当の解決とは

社会生活を送る上で、立場というのはついてまわるものです。
自分に立場があるように、相手にも立場があります。
立場違えば、ではないですが、不満もまた生まれてくるものです。
不満というのはなくならないものなんでしょうか?

そんな事はありません。
ですが、なかなか難しいものだと思います。
難しくしているのは、一方的な解決を目指しているからです。
自分の不満解決だけを押し通そうとするからです。
それでは問題は解決しません。
相手にもまた、相手の立場があり、不満があるんです。
一方的でない解決を目指すなら、時間はかかるかもしれませんが不満はなくなると思います。
つまり、話し合いでお互いの妥協点を見出すわけです。
先に結論を書きますが、話し合いなくして本当の解決はないと個人的には思っています。
歩み寄り、譲り合い、社会生活を送る上で必要なものではないでしょうか。
それが出来ない時に、衝突が起こります。
衝突が起こり、不和が起こり、お互いに理解出来ないとなり、最終的には関係の解消になります。
関係の解消には~のせいと、相手に問題があったと結論づけてしまいます。
これもまた、一方的な解決です。

見えない衝突というのもあります。
一方的妥協です。

こちらはちょっと厄介です。
どう厄介かというと、周りから見ると何も問題もなく、不満もないように見えるからです。
そう見えるように一方的に妥協しているんです。
周りに迷惑をかけてはいけない、わがままを言わない、いい子でなければならない、自分が悪い。
自分より、周りを大事にしようとします。
周りからは優等生とかいい人とか、いいイメージであろうとします。
そんな自分でいいと思っていました。
ですが、こちらもまた、一方的な解決です。
ですから、いずれ衝突が表面化します。
表面化した時にはかなり難しい問題だと自分で感じてしまいます。

全く違う問題解決になるように思うかもしれませんが、違います。
同じなんです。
どちらも一方的解決を目指しているんです。
ですから問題は解決しません。
一方的妥協の方は分かりづらいかもしれません。
こちらは解決しなければならない関係が少なくとも二つあるからです。
それが問題を難しくしているんです。

今まで我慢してきたのは~のせいだ、
今までずーっと我慢してきたからもう我慢したくない。
確かにそう思うのも仕方ないかもしれません。
よく今まで我慢してきたと思います。
ですが、だからこそ、歩み寄り、譲り合いが必要なんです。
表面化した今だからこそ、話し合いでお互いの妥協点を見つけられるんです。
そんな事したくない、そう思うのも仕方ないかもしれません。
仕方ないですが、そう思っていたからこそ、問題は解決しなかったのかもしれません。
本当の解決を目指して取り組んでみませんか。

日頃から会う人は大事、たまに会う人はもっと大事

四年に一度の頻度で行われる中学時代のクラス会に参加しています。
中学を卒業してから十年後にクラス会を開き、それから四年毎に開かれ、今年がその年でした。

クラス会って、続いていますか?
ちなみに続いているクラス会って、僕の場合はこの中学時代のクラス会だけです。
それ以外は一回だけで終わってしまっています。
もし、続いているクラス会があるなら、是非参加してみて下さい。
ひょっとかすると、非常に貴重な体験が出来るかもしれません。
僕も今回もですが、貴重な気づきを得る機会に恵まれました。

どんな貴重な体験をしたかというと、八年前の自分と出会う事ができたんです。
といっても、厳密にいうと、すっかり忘れていた八年前の自分を思い出させてもらった、となりますね。

前回、参加できなかったクラスメートが、八年ぶりに参加して、八年前と僕が全然違うと指摘してくれたんです。
四年前に参加した時は、本格的にカウンセラーの資格を取る為に学校に通い出す頃でした。
さらにその四年前となると、確かにプライベートでもゴタゴタがあって、けっこう悩んでいた事がありました。
四年ぶりにクラスメートに会うわけですから、近況報告も兼ねて、普段から会う友人達と違って色々話すわけです。
ですから、当時けっこう詳しく話したんでしょうね。
ですが、八年の年月は僕にとっては悩みの解決のスパンとしては長すぎるんでしょうね。
”そんな事あったっけ”って感じで、すっかり忘れてしまっていました。

不思議に思うかもしれませんが、悩みが解決する時って、大抵こんなものです。
悩んでいる時も時間は流れているのですが、自分の中の時間は止まってしまっているんです。
ですから、ずーっと同じ問題が続いていってしまうんです。
もう少し補足すると、ずーっと同じ問題を続けていこうとするんです。
ですが、その問題をしっかりと自分の中で消化して解決すると、自分の中で止まっていた時間も同時に動き出します。
自分で止めていた時間を動かすようになるんです。
時間が流れると、周りの環境の変化にも柔軟に対応できます。
物事が変化していくんです。
少しずつの変化ですが、時間と共に積み重なり、いずれ大きな変化になります。
変化の渦中にいる本人は、あまり意識しません。
意識する必要性がないからです。
そして、周りと合わせられる日常が積み重なっていきます。
今まで出来なかった事が、当たり前の日常となっていくんです。

では、たまにしか会わない人にしてみるとどう感じるんでしょうか?
その人にとっては、当時会った時の印象しかありません。
そこから変化しようがないんです。
つまり、今回のケースでいくと、八年前で止まってしまっているんです。
僕が言うのもなんですが、それは確かに劇的な変化に感じるんでしょうね。
八年前との違いを指摘したくなっちゃうわけです。

もちろん、いい変化もあれば、悪い変化もあります。
どちらも、たまに会う人の方が気づくものです。
自分を見直すきっかけになるかもしれませんよ。