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親子関係

義父母の喫煙どう言えば

今回も中日新聞の ねえねえ ちょっと に掲載された相談を考えてみたいと思います。
どうぞ、お付き合い下さい。

今回の方は、ご主人が長男で、最近新居を建て義父母と同居予定の主婦の方です。
ご夫婦二人はたばこを吸わないのですが、義父母は吸うとの事です。
洗濯物などににおいが付くのも、部屋の壁紙が変色するのも嫌との事です。
子どもは二人いるとのことですね。
"外で吸って"とお願いしたいのですが、どう言えばいいのか悩みます。
冬は雪が降るので、ためらいも。
親思いのご主人から話してもらうのは期待できない、とのことです。

なるほど、これはなかなか難しいですね。
義父母に、たばこを"外で吸って"もらうには、どうしたらいいのか、悩んでしまいますよね。
ご主人から話してもらうのではなく、ご自分で言わなければならないなら、尚更色々考えちゃいますよね。
それでは、一体、どう言えばいいんでしょうか?

多分ですが、この方の中で、ある程度どのように言おうか決まってるように、僕には感じられました。
子どもさんがいるとの事ですので、それを絡めて考えているのではないでしょうかね?
例えば、”子どもの健康に悪いので”みたいな感じですかね。
お孫さんを思う、義父母の情に働きかけるお願いですね。
それを上手く伝えると、義父母は外で吸ってくれると予想がついてるんじゃないですかね。
ただ、何か一方的過ぎる気がして、言い出しづらい気にもなってるのではないでしょうか。
冬は雪が降るし、夏は暑いですよね。
そう考えると、どうしてもためらっちゃいますよね。

なら、いっそ、”外で吸って”というお願いをちょっと考えてみませんか?

義父母の部屋の中でだけ、たばこを吸ってもらう、というのはどうなんでしょう?
洗濯物ににおいも付かないし、義父母の部屋の壁紙は変色しちゃいますが、自分達で掃除してもらえば問題もないのではないでしょうか?
外ではないですので、外の環境の変化を気にする必要もないですし、お孫さんの健康という点でもちゃんと理に適ってると思われます。
親思いのご主人も、納得できるのではないでしょうか。
なにより、一方的ではないですので、言い出しやすいと思われますよ。

”守る” VS ”見守る”

今回は、”守る”と”見守る”について、その違いを考えてみようと思います。
たった一言、一つの動作、”見る”が入るだけで、似て非なるものになっちゃうんです。
タイトルでは、あえて VS とまるで対立してるように書いてみましたが、もちろん、どちらも大事で必要な事だと思います。
ただ、どちらかに偏りすぎると、どうも対する方にあまりいい思いをもたない傾向があります。
というか、誤解をしやすい、と言った方がいいかもしれませんね。
どのような誤解が生じるかと言うと・・・
”守る”が強すぎると、”見守る”傾向がある相手を見ると、冷たい人、無関心という印象を持ちやすいです。
ですから、そんな対応を見ると、さらに"守る"という行為をしてしまいます。
逆に、”見守る”が強すぎると、”守る”傾向がある相手を見ると、干渉し過ぎ、おせっかいという印象を持ってしまいますね。
ですから、そんな対応を見ると、さらに一歩引いて"見る"という行為になってしまいます。
でも、どちらも対象の相手に対して、大事に思ってるのは一緒なんですよね。

どちらも必要で大事な事なんです。
そして、もっとも大事なのは、対象の相手の意見が一番大事なんです。
それを念頭に置いておかないと、対象の相手が板挟み状態で、新たな問題に発展しちゃいます。
相手がどうしてほしいか、何を望んでいるのか、それを与えれると問題は何も起こりません。
当たり前のことなんですが、なかなか難しいですよね。
難しいなと思うなら、ひょっとかしたら、どちらかに偏っているのかもしれません。
足りない方をちょっと心掛けてしてみると、そのような問題もなくなるかもしれません。
"守る"傾向が強い人は、"見守る"を心掛けて、
"見守る"傾向が強い人は、"守る"を心掛けて。

自分はどちらの傾向が強いか分からないなって思うなら、当事務所一押しの"エゴグラム"をお薦めします。
なんて、最後はちょっと宣伝になっちゃいましたが・・・。

自分の都合押しつける母

今回も、ねえねえ ちょっとに掲載された相談を考えてみたいと思います。
どうぞ、お付き合い下さい。

今回は、お母さんとの関係についてのようです。
七十代で健康体のお母さんはきつい性格のようで、何でも自分の思い通りにならないと気が済まない人のようですね。
実家から四十分ほどの場所で家族と暮らす相談者の方に、電話で家事の手伝いや用事を言いつけてくる、とのことです。
引き受けないとすぐ不機嫌になるので、いつもお母さんの言いなり、とのことです。
五十歳を過ぎて親の顔色をうかがい、ビクビクしている自分が惨めでつらい、そんな状況のようですね。

なるほど、顔色をいつもうかがいながら生活するって、疲れちゃいますね。
そんな自分を、惨めでつらいって感じちゃうんですね。
本当にお辛いんだなって、お察しいたします。

さて、それではどうしたらいいんでしょうか。
お母さんとの関係ですので、長年続けてきた対人スキルの見直しになるのではないかな、と思います。
何故なら、家族との関係、それも自分のお母さんとの関係というものは、最も影響を受けているとも言い換えれる関係だからです。
もちろん、それが全てではありませんが・・・。
"自分がお母さんの言いなりになれば、お母さんは不機嫌にならない。だから、関係はうまくいく"。
多分ですが、子供の頃から、そのように考えてずっと続けていたのではないでしょうか。
自分さえ我慢すれば、と考えていたのもあるのかもしれませんね。
これって、一見正しく見える考えですが、実は誤ってる考えなんですよ。

どこが誤っているかというと、まずは自分で条件をつけてしまっているんです。
”お母さんの言いなりになる”という条件を満たす事によって、”不機嫌になる”のを防いでいたんです。
確かに、その通りですよね。有効な手段だとは思います。
ずっと”言いなり”になれれば、ですが・・・。
ですが、今回の事でも分かるように、一方的に負担を負うという行為は、いずれ破綻してしまうんです。
気づきにくいんですが、相手の行動を促す事もしているんです。
"言いなり"になっていると感じているのは、自分です。
相手であるお母さんは、"言いなり"になって、迷惑に感じているとは気づいていないんではないでしょうか。
だから、自分の用事を何でも言いつけてくる(言ってくる)。
悪循環が生じているんです。

今、自分はどうしたいんでしょう。
ビクビクしている自分が惨めでつらいんですよね。
このままお母さんの言いなりを続けると、ずっとそれが続くんです。
それをずっと味わい続けてもいいんでしょうか?
そんな自分を変えたい、それなら、今まで避けてきたことを取り入れるタイミングなんでしょう。

避けてきた事、それは"断る"という事です。
今まで避けてきた事ですから、最初は、難しいと思います。
これだけは"言いなり"になりたくない、そんな場面を特定して、まずは、それだけを"断る"ようにしてみて下さい。
今までは、"断れない"と思っていたと思いますが、"断らない"事をしていたんです。
実際、やってみると、自分が想像していた程、難しいものではないですよ。
そのうち、自然に身に付いて、普通にやれると思います。

嘘とどう向き合うか

人は誰でも嘘をつきます。
なんていきなり断定しちゃいましたが、嘘をついたことがない人なんていないんではないかなと思います。
そんな事ない、嘘は悪い事だから今まで嘘なんてついた事ないと反論したい人もいるかもしれません。
確かにその通りだと思います。嘘は悪い事だと思います。これ以上ない正論ではないかと個人的にも思います。
でも、ちょっとだけ考えて下さい。
自分の気持ちに正直に、嘘つくことなく生活できるのでしょうか?
自分の気持ちに正直に、嘘つくことなく生活したら、どんな状況になるんでしょう?
ちょっとだけ、想像してみて下さい。

どうでしょうか、今までうまくいっていた関係もギスギスした関係になった状況が想像できたんじゃないでしょうか?
自分の気持ちに正直になるのは大事な事ではありますが、それだけでは、人付き合いは上手くいきません。
つまり、周りと上手くやっていくために、自分の為に自分の気持ちに嘘をつくんです。
人付き合いが苦手な人、もしくは周りと衝突ばかりする人は、自分の気持ちに純粋に正直なのかもしれませんね。
嘘という言葉に抵抗があるなら、気を使う、と置き換えて下さい。
周りに気を使えない人もまた、人付き合いが上手く出来ないですよね。
それでは、せっかく気を使ったのに、と言いたい時って、どんな事を感じていますか?
そんな時は、自分の気持ちと違う行動をとった時が多いんじゃないでしょうか。
せっかく気を使ってしてあげたのにしなければよかった、とまではいかないまでも、近い気持ちにはなるんではないでしょうか?
でも、相手は気を使って欲しかったんですかね、勝手に気を使ったのは、誰なんでしょう?

さて、あなたは、今、誰かとギスギスした関係はありますか?
それは、あなたが自分の気持ちに、純粋に正直に行動してしまった結果も一因ではないのでしょうか?
それは良い事なのか悪い事なのかは分かりません。
ただ、自分で行動した結果ですので、責任は自分で取るしかないですよね。
もちろん、その関係で特に困っていないならそれでいいと思います。
自分を取り巻く環境を決めるのは、他の誰でもない、自分自身だけなんです。

その関係で困っているなら、どうしたらいいんでしょうか?
まずは、自分の為に、何が自分に出来るんだろう、と考えてみたらいいのではないでしょうか。
困っているのは、他の誰でもありません。あなた自身なんです。
自分の気持ちに、純粋に正直に行動してしまった結果も一因なら、まずは自分で出来る事として、その行動を修正する事が出来ますよね。
相手と上手く付き合う為に、自分の為に自分の気持ちに嘘をつく、その嘘とどう向き合っていくか、となるのではないですかね。
案外、向き合ってみると、今まで見えなかった、見えないようにしていた事に気づくものです。
関係は修復出来るものです。修復出来なかったとしても、何かしらの答えは出るものです。
何かしらの答えを出すのもまた、他の誰でもない、あなた自身なのです。

それでは、もう一つ・・・。
相手はなぜ嘘をつくのでしょう?
あなたとの関係を上手くやっていく為に、嘘をつく、とも考えられませんか?
嘘を貫く為に、更に嘘をつく、あなたとの関係を上手くやりたい為にやっているのかもしれません。
もちろん、それだけではありません。でも、そんな嘘もあるのではないでしょうか。
他人を変える事は出来ません、でも、あなた次第で、他人は勝手に自分で変わっていくんです。
その嘘とどう向き合っていくか、それもまた、あなた次第なのかもしれませんね。

 

手のかかる子、手のかからない子

よく言われる事で、手のかかる子ほどかわいいって言葉ありますよね。
僕もよくその事を昔から考えた事がありました。
僕の場合は、手のかかる子が羨ましいっていう感情がありましたね。
自分的には、手のかからない子だったと思っていましたから、手のかかる子が大人に手を差し伸べてもらうのを見て、またかとあきれる反面、羨ましいとかいいなあとか妬む気持ちがかなりありましたね。
手のかかる子、出来ない子、甘え上手な子、となるんでしょうか、この場合。
実際、可愛がられるんですよね、そういう子たちって。
だからと言って、自分がそうなりたいと思っても、弱音を吐けないんですよね。
自分が出来ないから、出来る相手が羨ましい、妬ましいという複雑な感情を抱いていたと思います。
でも、実は違っていたんですよね。

では、何が違っていたんでしょうか?
僕が手のかからない子だったというとこだったんでしょうか?(ちょっと書いてて不安に思いましたんで、親に確認しました、自覚通りちゃんと手のかからない子だったようです)。

さて、気を取り直してもう一度、何が違っていたんでしょうか?
手のかかる子も、手のかからない子も、子供らしく素直であればそれでいい、のではないでしょうか。
つまり、二つに無理に分ける事自体、違ってるのではないですかね。
手のかかる子はいつもどんな時も、手のかかる子なんでしょうか?
手のかからない子はいつもどんな時も、手のかからない子なんでしょうか?
そんな事ないですよね、もしそんな事があるとしたら、
手のかかり過ぎる子、手のかからなさ過ぎる子、となりますよね。
僕ほどうも、手のかからなさ過ぎた子だったんではないか、と思います。だから、当時、複雑な感情を抱いていたのではないかなと思います。素直に感情を出す事を自分でしないようにしていた、自分の気持ちに嘘をついてた、と思います。
だから、素直に感情を出せる子が疎ましくもあり、羨ましく妬ましいと思っていたんでしょうね。

ただ、ここで大事なのは、子供でも、自分で選択している、という事実なんです。
僕の場合を例に出しましたが、子供の時の僕であれ、僕が選択しているんです。
ここって、難しいとこなんですが、親の責任ではないんですよ。自分の責任なんです。
それを選択したのは親ではなく、自分だから、です。
責任を取るって、嫌ですよね。だから誰かの責任にしたいんです。だから、親の責任にしたいんです。
誰かのせいにしたら、楽ですよね。楽なんですけど、それだけなんです。
もし、問題だと思ってたとしたら、その問題は解決しないのではないかなと思います。
あくまでも、大人になって、問題だと思った場合の話しですが・・・。

さて、もう一つ。
物事は、可もなく不可もなく、です。
過剰過ぎるのも、過小すぎるのも、なく、です。
過剰過ぎるなと思うなら、過小にして、
過小すぎるなと思うなら、過剰にして、適切に、です。

 

 

思い込み (過干渉)

この前テレビを見てた時、魚の活き造りが出ていました。
刺身は鮮度が大事と言いますが、捌かれてるのにまだ動いてるんですよね。
個人的に刺身は好きですが、これってまさに人間の食に対する欲求の表れなんじゃないでしょうか。

どうも僕は食に対する欲求はそれほど強いほうではなくて、食べれればいいかなって感覚に近いですかね。
さすがに不味いものを食べたいとは思いませんが・・・。
だから、個人的意見としてですが、どうも活き造りは残酷に見えちゃうんですよね。
うわあ動いてるよ~って感じですかね。

食物連鎖からみても、人間は他の生き物を食べるわけです。
ですから、別に残酷なわけでもなく、普通に食事してるだけなんですよね。
そう考えると、ただ、それを見るか見ないかだけなんですかね。
僕はどうも見たくない気持ちが大きいんでしょうね。

さて、人は同じものを見ていても、感じ方は違います。
みなさんも色々と感じることはあるんじゃないでしょうか?

どうでしょう、なかには魚が痛くて動いててかわいそうと思う人もいるんじゃないでしょうか。
すごく共感的で優しい気持ちをもってるんでしょうね。

でも、ちょっとまってください。

実は、魚類には痛覚を感じる神経がないんですよ。神経がない以上、痛くはないんですよね。
逆に"痛みってなに?"って聞かれるかもしれませんよね、もちろんしゃべれませんが。

ある光景を見て、気をきかせたのに、相手は分かってくれない。
周りに気を使える人は、そんなことを感じることもあるんじゃないでしょうか。
そんな時は、ひょっとかしたら気を使い過ぎてるのかもしれません。
まずは自分でできることを試してみたら、今までと違う結果になるかもしれませんよ。

あなたのためって本当なの?

"あなたのためなのよ"、"おまえのためにだな"とか、思い当たることありませんか?
親子関係、先生と生徒、上司と部下、親しい間柄だと、よくある光景ではないんでしょうか?僕も思い当たることは多々あります。

言ってる方は、相手の事を考えて言っているんですが、相手が変わらず、ジレンマを感じ、挙句の果てには相手に嫌な感情をもってしまうこともあるんじゃないでしょうか?
言われた方は"大きなお世話だよ"とか"別に頼んでないし"とか感じてこれまたジレンマを感じるんじゃないでしょうか?
なんとなくお互いに"本当に困ったもんだよ"なんて構図が目に見えるようですね。
なぜ自分の意図しないことになるんでしょう?
ちょっと考えてみてください。あなたのその好意は、その相手が望んでいることなんでしょうか?自分に置き換えて考えてみてください。あなたも自分が望んでいない事を相手にされたら素直に受け入れれますか?今まではこれでうまくいってたんだ、って思うかもしれませんが、今までは今までです、あなたの目の前にいる相手とは違いますよね。相手の望むニーズに添わなければ、どんなに素晴らしい話しも無駄になってしまいます。下手したら相手に嫌な印象を与えてしまうかもしれません。もったいないですよね。
別の考え方をすると、ある程度我慢してて、あーもう我慢の限界だーってなってから相手に伝えるってことが多いんじゃないでしょうか?その時は、素直に相手に分かりやすく、客観的に伝えた方が、変な誤解が起こる可能性は減るかもしれません。

当たり前のことほど実は気づかないってことは、多いです。自分が考えてること、思う事は自由だと思いませんか?なら、相手がどのように考えてどのように思うのも、相手の自由なんです。
もちろん、一番大事なことなんですが、相手がなにを考えているかなんて、分かるわけないです。超能力者なら別ですが・・・。分かった気になってるのが、一番危険だと認識してください。間違いなく、ズレが生じてると思います。

お互いに、自分の思ったことを素直に相手に伝え、相手の存在を尊重する考えをもって接すると、案外スムーズに関係が築かれるかもしれません。あくまでも、僕の意見ですので、あしからず。