free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

愛知県一宮市今伊勢町新神戸
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2015年

迷いすぎてこじらせてしまった君に

本の書き出しで時々ですが、
誰々に贈るってありますよね。
普通に読んでる時は
うわぁなんて思っちゃうんですが、
今回は思うところがあって、
あえて
うわぁって思われる側に回ろうかと思います。
少しでも読んで楽になってもらえたら
幸いかなと思っています。

安定した生活、安定した仕事、
安定した関係、安定した収入、等々、
安定って言葉って安心しませんか。
だから人は迷った時に答えを求める傾向があります。
迷った時って、
グラグラ、フラフラ、等々
安定していない状況になってしまっているからなんです。
そんな状況って長く続くと思いますか。
続かないんです。
どうしてかというと、
不安定な状況というのは、
心が常に動いていて疲れてしまうからなんです。
答えがあると、少なくとも
安定して安心できます。
それがあなたにとって、
助けになろうとなかろうと・・・。

でも困ったことに、
心って見えないどころか、
存在も曖昧ですよね。
だからどんどん疲れていってるのに
気付かないんです。
そもそも存在も曖昧なのに、
疲れるって変って思うかも
しれませんが、
だからといって、
変化がないわけではありません。
心も身体もあなた自身です。
ですから、
身体にちょっとした変化が必ず現れているはずなんです。

では一体、どんな変化が現れると思いますか。

それは、調子悪いなぁって病院に行く事ってありませんか?
でも、実際診察してもらって、
別に異常がないって診断が出る時があります。

それなんです。

異常がないなら、調子悪いはずありません。
もちろん、嘘をついてるわけでもありません。
でも、調子悪いんです。
それが、心の疲れから身体に出る変化なんです。

困ったもんだなぁって思うかもしれません。
なんとかならないかなぁって思うかもしれません。

それを、身体が知らせてくれているんです。
なんとかしてほしくて、身体がメッセージを送っているんです。
だって、心も身体もあなた自身なんです。
身体も楽になりたいんです。

では、身体からのメッセージを受け取ったならどうしたらいいんでしょうか?

語弊を恐れずにあえて書くなら、カウンセラーに相談して下さい。

身体からのメッセージは、あなた自身からくるメッセージです。
他の人の身体からくるメッセージではありませんよね。
ですから、経験談、体験談はその人だけのものなんです。
だって、身体違いますよね。
身体違うのに、経験談、体験談が参考になるんでしょうか。
たまたまよくなる事はあるかもしれません。
そもそもそれでよくなる人は問題はありません。
ちゃんと自分で解決してますから。
よくなればいいんですが、
よくなろうとするあまり、
こじらせちゃう、なんて事になってしまう人もいます。
そちらが問題なんです。

カウンセラーは、
その人の身体からのメッセージを、
正確にきいて、適切に対処する、
その技術を身に付けています。

もちろん、カウンセラーが問題を解決するわけではありません。
問題を解決するのは、
困っているあなた自身なんです。
カウンセラーはどうこうしたいという思いに気づいてもらい、
その手助けができる手法を持っているだけなんです。

人が人にできる事は思うほど多くありません。
ですが、安心してください。
本来人は自分でなんとかできるものなんです。
ちょっとした怪我なら自然に身体って治りますよね。
今は自然治癒能力をちょっと自分で阻害しちゃっているだけなんです。
まさに、
こじらせちゃっている状態なんです。

他人の事はよく気づきます。
反面、自分の事は気づきません。
誰だって、
自分の本当の嫌なとこは知りたくないからなんです。

自分の本当の嫌なとこを知る、
とんでもなく
しんどい作業になります。
つきあう方もまた、
とんでもなく
しんどい作業になります。
お互いしんどい作業なので、
“そんな事ないよ”
と否定したくなります。
否定されると
そうかもしれないと思って
それ以上進まなくなります。
そして、
また同じ事を繰り返す事になってしまいます。
それは仕方ないことなんです。
だって、
自分を守る自然な行為ですから。

否定も肯定もせず、
そのまま進めていくと、
こじらせちゃった問題の本質がはっきりとみえてきます。
それに自ら触れ、受け入れると、
驚くほどあっけなく
問題は解決します。

だって、
本来人は自分でなんとかできるものなんです。
なんとかできるものを、
自らなんとかしないように、
知らずにこじらせちゃっただけなんです。
誰もができない事はできない事かもしれません。
しかし、できる人がいるなら、
できる事なんです。
違いがあるというなら、
できないようにしているのは、
自分しかいません。
自分で問題をこじらせちゃっているだけなんです。

自分自身をよく知り、
自分の欠点をよく理解し、
自分なりに上手く対処する、
そうすれば、
良くならないわけありません。

もちろん、
身体の異常もなくなっています。
だって、
楽になりたいってメッセージを
しっかりと受け取り、
ちゃんと対処していますから。

すぐにはよくならないかもしれません。
それだけ、長い時間あなたが苦しんできた証だからです。
今まで本当に苦しい思いをしてきたんですね。
でも、よくなります。
よくなるというと本当かよと思われるかもしれませんが、
元の元気だった頃に戻ります。
身体がそのように望んでいるからです。

純粋さというのは力があります。
身体からのメッセージは
よくなりたい、楽になりたいという純粋な思いそのままです。

その純粋な思いに答えるだけで
元の元気だった頃に戻れるんです。
もちろん、簡単ではありません。
ですが、大丈夫です。
身体も心もあなた自身だから。

勇気を出して言ってみる

個人的な事なんですが、長年言い出す事が出来なかったことがありました。

勇気を出してついさっきなんですが、切り出してみました。

迷うぐらいならまずはやってみる。

なんて偉そうに言っていますが、大事な事こそ切り出しづらいものですよね。

僕にとっては、切り出すのに長年の時間を要する事だったんでしょう。

あっさり上手くいきました。

だからといって、嬉しさは減るものではありません。
むしろ、長年の時間だけ、嬉しいものです。

大事な事にはハードルを実際より高くしちゃうものです。
失敗を必要以上に恐れるからです。

ハードルを上げすぎちゃっていませんか?

切り替えも必要(落選運動)

話しが通じない相手はいます。
そんな相手に対してどう接すればいいんでしょうか?

まずは、いかに自分が迷惑しているか相手に話します。

相手が気づいていないだけかもしれないからです。
気づくことによって、反省して態度を改める可能性があるからです。
それで、目的は達成です。

では、それでも態度を改めない時はどうしたらいいんでしょうか?

最終的に、こちらが考えを改めなければならないでしょう。

変わってくれる、そんな期待をもっている自分の考えを。

“落選運動”

落選して、落ちてみなければ反省できないでしょうから。

人が変わるには、大きな出来事が必要です。
それを、運動として、意見として選挙で示す。

そして、反省してもらい、変わってもらう。

未来思考であり、より建設的ではないでしょうか。
素晴らしい考えだと、個人的に思います。

行動を掘り下げてみる

今夜は久々に親友達との飲み会でした。
前回からちょっと僕の周辺で色々変化があって、僕はその話しを実はこの飲み会でしか話さないんです。
自分で決めてるんでしょうね。
まるで、懺悔室みたいな感じにしてるんでしょうね、僕自身が。

で、詳しい内容は記さないんですが、改めて気づいたことがありました。

他人によく言う事って、自分自身出来てない事が本当多いんですよね。

僕がよく、自己犠牲ってありえないって言う事が多いんです。
まず自分があって、それから相手。
自分を蔑ろにするのはありえない、と。

でも、実際、しちゃってるんですよね、僕自身が。
自分でも自覚してるんですが、自己犠牲してる行動ってあるなぁって。

僕も親友達と同じ立場なら、全く彼らと同じ事を言うと思うんです。
つまり、それは違うだろ、と。
彼らが親身に話してくれると同じ事を、同じ立場なら話すと思うんです。
実際、色々考えましたから。

分かっちゃいるけど、止められない。
だけど、止めたい。
なら、簡単なんです。

止めたいって意思があるから。

でも、今のとこ、どうも僕の中の優先順位は今のままみたいでいいみたいです。

どうしてなんでしょう。

・・・

ちょっと、思い当たりました。

僕は以前、それを厳しい程、実行していたんです。
自己中って言われても仕方ないぐらい
でしたね、当時は。

でも今は一応、これ以上はダメって事を伝えてるんです。
そして、その通りにされると仕方ないかなって思っちゃうんです。
で、引き受ける。
どうも、そのラインは一般的にかなり低いみたいですが、以前よりはマシに思ってるんでしょうね。

人は嫌な思いをしたら、その行動を気づいて直します。
でも、どうも意識せず、行動を改める事もするみたいです。
長い時間をかけて、徐々に変化するんでしょうね。
徐々に一般的なラインまでいければいいかなって思っています。
じゃないと親友達に心配かけまくっちゃいますからね。

信念は行動に現れる(強行採決)

遂に行動を起こしちゃいましたね。
あんな国会の現状を見て、子供達に何を教えれるというんでしょうか。

100時間の時間を使って議論を重ねてきた、国民の理解を得る事は難しい。

それはそうですよね、招致した専門家が違憲って回答しているんです。
それなのに押し通す。

話し合いもなにもあったものではありません。

理解を得れないという答えが出た。
だから、強行手段で決めてしまえ。
長い目で見れば、日本の為になる法案だ。
今やらなくて、いつやるんだ。

時として、誤った信念程、強固な行動に出ます。
自分が正しいと考えていますから。
聞く耳もありません。

本当に怖いことです。

奇数だから?!

“ドリカムが昔3人だったって最近の子は知ってるのかな?”
なんて会話が出ました。

“それを言ったらポルノグラフィティだって、ELTだってそうだよねぇ”

で、ちょっと考えて、

“ひょっとかしたら、3人って数に問題があるんじゃないかな。
二人が仲良くて、一人が離れてくってあるのかもしれないよね。”

なんて話したら、納得していました。

親密になるのには、会話は欠かせません。
話し手と聞き手、やはり二人です。
カウンセリングも基本、二人です。
そういえば、一人っ子も寂しいと聞きます。

自分で話しながら、けっこう思い当たる事がどんどん出てきました。
一因としてはあるかもしれませんね。

余計な事をしない

この前の事なんですが、ある人と何気ない会話の中で、その人に聞かされた言葉があります。

“余計な事をしない”

その人はよかれと思ってある行為をしたんですが、それが相手には余計な行為だったみたいでトラブルになってしまったそうです。
その人はいい事をしたと思っていたので、人の好意を踏みにじるひどい相手だと憤っていた、とのことです。
でも、トラブルになってしまったのは事実です。
トラブルになってしまった以上、解決するしかありません。
そして、上司に言われたそうです。

“余計な事をしない”

よかれと思った好意はあくまでも自分の考えです。
相手が望んだものではありません。
なら、自分の好意は相手にとって余計な事だったわけです。
余計な事さえしなければ、トラブルにならなかった、というわけです。

それはこの人にとって、ストンと落ちた言葉だったんでしょう。
それからはこの言葉に従って行動して、この人なりに他人との付き合い方が上手くいくようになったみたいです。

こんな経験ってかなり多いんじゃないでしょうか。

余計な事をしてしまうから、問題がこじれてしまう。
余計な心配をするから、相手に苛立ってしまう。
余計な気遣いをするから、何も出来なくなって勝手にイライラしてしまう。
余計な事を考えて、今まで築き上げた関係をダメにしてしまう。
余計な手伝いをして、相手の成長を妨げてしまう。

しかし、このような問題が解決する時は、拍子抜けするぐらいアッサリ解決します。
どうしてなのか?
それは、勝手に自分が問題視してるだけだからなんです。
実際、起きてる事実としての事柄は変わらないんです。
あ、これは余計なんだと気づいた時、今までのわだかまりが驚くぐらいなくなっちゃいます。
数年、もしくは数十年のわだかまりが、です。

言葉とは力を持っています。
いい方向に働けばいいのですが、悪い方向に働いてしまう呪縛にもなってしまいます。

新しいものを手に入れた時って無性に使いたくなっちゃいませんか?
僕はしょっちゅうあります。
飽きるまで使って、やっと適度な距離感が分かります。

最初は呪縛でも、仕方ありません。
距離感を図りかねているんです。
これはこうだからと、言い訳するようになったらちょっと危険なサインです。
自分に言い訳しなければならない事は、到底他人も納得できない事が多いです。

調味料を入れて、自分好みの料理の味付けをします。
その味は、自分好みの味でしかありません。
その味付けを他人に押し付ける人ってそれほどいないんではないでしょうか。
さりげなく、脇に調味料を置いておく、そんなスタンスっていいですよね。

クラクション(スキル)の使い方

以前ある知り合いに聞いたんですが、その人は車のクラクションを鳴らさないそうです。
鳴らされた相手が嫌な気持ちになるからとの事でした。
当時はなるほどねぇと聞いていたんですが、そうかもしれないし、違うかもしれないんですよね。
確かに相手が嫌な気持ちになるかもしれませんが、それはこちらには分からない事なんです。
なるかもしれないし、ならないかもしれない、感じるのは相手の自由なんです。

嫌な気持ちになったのは、以前自分が鳴らされた時の事なんです。
自分が嫌な気持ちになったから人にはそんな気持ちをさせたくない、だから自分は鳴らさない、そんな思考の流れだったんでしょうね。

でも、いずれ葛藤が生じるんです。

誰でもなんですが、信号待ちでぼーっとする時ってありますよね。
その人の前にたまたま青信号なのに動かない車があったとしたら、その人は一体どうするんでしょう。

そのまま待つんでしょうか?
それともクラクションを鳴らしてみて、新たなクラクションの可能性を手に入れるんでしょうか?

なんてちょっと大袈裟に感じるかもしれませんが、なにげなく過ぎていく日常の中にこそ、ちょっとしたつまずきがあるんです。
その時こそ、つまずいた内容を見直すチャンスです。
つまずかせているのは、他でもない、自分自身の思考なんです。

見直せるのは自分しかいません。
自分にとって、もっとより良い方法で日常生活を送ってみませんか?

なんて、通勤途中にクラクションを鳴らされてちょっと考えてみました。
ちなみに僕は嫌な気持ちにはなりませんでしたね。

頑なには(本人なりの)理由がある

頑なな態度を取る人っていますよね。
"なんであんな頑ななんだろう、理解できない"
なんて思わず思っちゃいますよね。
でも、それってお互い様なんです。

だって、相手も頑なに拒否しているなら、こちらも頑なに言うこと聞かせようとしているんです。

こちらに理由があるのなら、もちろん相手にも理由があるわけです。
ただそれが何か分からないだけなんです。

もし、その理由を知りたいなら相手に聞くしかありません。
どれだけこちらが困っているか説明して、そして相手の頑なな理由を聞いてみるんです。
もちろん、相手も同じような手順になります。
そして、お互い歩みよれるようにして問題解決に向かいます。

どちらも困っていて、なんとかしたいという思いは共通なんです。
ただ、それが何か、お互いに理解り合えてないんです。

なんて考えてみると、歩みよってみようと思えませんか?

こちらが歩みよると、向こうも歩みよろうとします。
こちらが拒絶すると、向こうも同じように拒絶します。

どうせ困るなら、より建設的な事で困りたいですよね。

事故の衝撃

個人的な事ですが、昨日、仕事帰りに交通事故にあいました。
車で信号待ちをしている時に、後ろからの追突です。
いやあ、本当に頭にくるものですね、こちらに全く非がない時というのは。
完全に相手の前方不注意、10対0の被害者と加害者の関係の出来上がりです。

感情というものは、自然と湧き上がってくるものです。
今回は一方的に車をぶつけられたという怒りの感情が出てきました。
なんて、後でこうやって書いていますから怒りという一言で表せますが、
ようは、その場で感じた事を、そのまま出すという事が大事という事です。
湧き出てきたものをそのまま出すと、自然と収まるものです。

ここで面白いのは、湧き出てきたものをそのまま出すという事は、
自分にとって良い事も悪い事も全てという事です。
良い事か悪い事かというのは既に思考で判断してしまっているので、
湧き上がってきた感情とはちょっと違っています。
自分にとって悪い事を認めるというのは、なかなか出来る事ではありませんが、
それが出来ると出来ないとでは結果がかなり違ってきます。
自然と収まる人、自然と収まらない人、
つまり、一例で例えるなら、
愚痴になるかならないか、なんていえるかもしれませんね。

ちょっと脇道にそれてしまいましたが、
被害者である僕は怒り、
加害者である相手は、自分のしでかしてしまった事を謝罪する。
それで自然と終わりになるものなんです。
もし、自然と終わらないなら、余計な事をしてしまっているんです。
もちろん、あくまでも湧き上がってきた感情の処理の話しです。
ですが、この処理が出来ると出来ないとでは、
問題がこじれるかこじれないかを大きく左右します。

感情の処理が済んだら、後は事故そのものの処理です。
これは事務手続きみたいなものです。
交通事故という事実があり、その事実を法律に照らし合わせて処理する。
客観的であり、主観が入り込む余地がないから、その事実が自然と収まるところに収まる。
収まらないということは、余計なことをしているんです。

なんて、ちょっと解説っぽく書いてみましたが、
何も問題が起こらない時はスムーズに物事が進むものです。
自然と収まるところに流れていくものなんです。
ですから、今回の交通事故の処理はスムーズに流れていきました。
スムーズに流れていき、それで終わりです。

収まるところに収まらないのは、余計な事をしてしまっているんです。
なんでいつも問題がこじれるんだろうではなく、
自ら余計な事をして、問題をこじらせてしまっていると考えてみると、
問題点がはっきりして、ちゃんとした処理が出来るものです。
流れに逆らわず、収めてみませんか?