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航のこらむ
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#僧衣運転 お墨付きだもん

今朝の中日新聞のある記事のタイトルです。
内容は省かせてもらいますが、僕的にはとても良い内容だと思います。

なんかこれってちょっとおかしくない、
そう思ったら、素直にその思いに反応し、声を出す。

声を出すことによって、表に出なかったものが表に出ることになり、
より多くの意見が出て、客観的に、冷静に判断される。

世間一般的な常識に基づいて、物事が変化する。

声を出したから、物事が変化します。
自分で声を出したからこそ、変化します。

声を出さなければ、変わりません。
いつまでも、同じままです。

自分さえ我慢すれば、いずれなんとかなる。
自分さえ我慢すれば、いずれ嵐も収まる。

そんなこと、ないです。
人が起こした行動である以上、収まってもまたすぐ嵐はやってきます。

見ていて、気分悪いなと思うなら、
素直にその思いに反応しましょう。

声を出して、行動することによって、
自分の気分の悪さも解消されますし、その人の助けになるかもしれません。

もちろん、何かを助けるということは、何かを助けないということです。
どんな尊い行動にも、責任が伴います。
自己満足にならないよう、
自己陶酔しないよう、自分の為に取った行動だと自覚しましょう。

真剣な思いは相手に届きます。
自分が信じて行動したことは間違いじゃなかったと、
あらためて思うことができると、経験上保証します。

こんな言葉は陳腐であまり好きではないんですが、
少しでも、優しい世界になればいいと、素直に思います。

目は口ほどにものを言う

人は生きていくうえでどこかしらの集団に必ず属しています。
学生なら学校、社会人なら会社、地域社会等、好き嫌いに関わらず他人と関わらなければ生きていけません。
ですから、人間関係というものはなくなるものではありません。
なくならない以上、上手く付き合っていくしかありません。
しかしながら、付き合い方がどうも下手なかたがいます。
他人と衝突するのは仕方ありません。
自分が譲れないものがあると同等に、相手にも譲れないものがあるんです。
それが正反対だったら、衝突しないはずありません。
表面上、衝突していなくても、正反対なら裏では衝突していることもありますが、表に出ない以上、上手に折り合いをつけているんでしょう。

まったく相手の意見を無視し、屈服させようとする考え方の方がおられます。
そんな方は、ふと、立ち止まっって、周りの景色を見てください。

目は口ほどにものを言う、そんな言葉があります。

あなたが常識的に正しければ、周りの目は冷たくないでしょう。

あなたが常識的に正しくなければ、仲の好い人以外の目は非常に冷たいでしょう。

しかし、あまりに続くと、仲の好い人も徐々に離れていきます。
その人にも譲れないものがあるのに、あえて譲っているからです。
しかしいずれ、我慢の限界を越えてしまい、離れていきます。
もちろん、仲のよくない人が寄ってくるわけありません。
だって、その人はトラブルだらけだからです。
近寄りたくないですよね、仕方ありません。
近寄られたくない人に、無理矢理近づいても嫌がられるに決まっています。
お互いにとって、近づかないのがお互いの好い距離感なんです。

言葉ほど、あてにならないものはありません。
人は言葉ではどうとでも言い繕うことができますが、自分が気づかずに無意識に身体に本心が出てしまいます。
なんか伝わっていないな、なんて感じたら自分が感じた感覚を信じてみてください。
相手のちょっとした行動に答えが出ています。
その人は、あなたの意見を本心では受け入れていないんです。

どうして受け入れられないのか、考えてみてください。

どんな些細な出来事にも、意味があります。
いちいち拾っていたらキリがありません。
しかし、見逃してはいけないものを見逃すと、後で苦労をすることになってしまいます。

ヒントは沢山あるんです。
それをいかに拾い自分なりに上手く生かすか、それだけの違いなんです。

受け入れなければならないものは受け入れましょう。

違う行動をすると、違う反応が返ってきますから。

愚痴は毒となり呪詛となる

僕は愚痴を吐くを毒を吐くと同等みたいにこのこらむで書いてきましたが、どうも最近場合によってはそれ以上にヒドイ状態もあるみたいだと認識を改めました。
人間というものは基本楽をしたい生き物だと、僕の中では認識しています。
楽をしたいからどんどん技術は進化していき、その技術にあっという間に適応していき、それまでの生活水準には戻れなくなっていく、そんな生き物だと思います。
楽を覚えれば楽をしないにこしたことはない、基本そんなとこではないでしょうか。
もちろん、全てがそうだとは思いませんが、学習するという前提ですと、そうなっちゃいますよね。それを否定しちゃうとちょっと色々と困ってしまうことになっちゃいますしね。

愚痴を溜め込むのはもちろん先々のことを見越すと問題なんですが、愚痴を吐き続けるのももちろん問題です。
溜め込むと毒ですから吐かなければ体内に毒を溜め込むことになります。
その毒が溜まることにより、医学的臨床データでは異常が表れない身体の異常がいずれ表面化してきます。
データ上は異常がないからお医者さんも問題ありませんとしか答えてくれません。
ですが、実際身体の異常は症状として出ています。
あとは答えを探し求める無限ループに突入となっちゃいます。
身体の異常を直したいという目的が、信じてもらえないので、いずれ症状の答えを探すという目的に変わってしまいます。
そして長い時間をかけ、苦労して症状の正体が分かると、信じてもらえなかった分、その答えの正当性を訴えることに力を注いでしまいます。
元々は、身体の異常を直すという共通目的があったのに、いつの間にかズレが生じ、いずれ決定的な決別となってしまいます。
そんな経験を体験してしまうと、それを学習し、二度と繰り返さないと自分の中で決めます。誰だって嫌な思いなんてしたくありませんからね。これが信念というものです。
嫌な思いをしただけ、強固な信念の出来上がりです。
もちろん、悪いわけではありません。
ただ、度を越す信念もまた、いずれ問題となります。

その度を越えた信念が、愚痴どころか、毒ですら甘く、まさに呪詛とも言えるぐらいのものを周りに撒き散らす結果をもたらします。
もちろん、本人はそんな自覚はありません。
自覚があるなら、誰だってそんなことしませんよね。
自覚がないからこそ、問題なんです。
しかし本人以外の周りは、同じ感覚を味わいます。
そこまで言う、そこまでやる、と。
それは、まさに愚痴どころではなく、毒でも生易しい、まさに呪詛と表現しても過言ではないものです。
自覚がないから、他人からの指摘に力一杯抵抗します。
二度と嫌な思いをしたくないという、自己防衛に基づいた信念の結果の行動です。
それを否定されるということは、また同じ嫌な思いをしてしまうかもしれません。
ですから、本人は過剰なほど抵抗します。
そこに、周りとのズレが生じます。
親しくない人は我先にと逃げ出し、親しい人も、なんとかしたいという思いから妥協しながら付き合います。
しかし、あくまでも妥協ですからいずれ、限界がきます。
だって、毒どころか、呪詛を聞き続けるわけです。
普通に考えて、耐えられるわけないですよね。
で、いずれ距離をとります。
それは仕方ないことなんです、生物として、自分が一番なのは当然なんです。
ですが、吐き続ける本人は自覚がないから、さらに他の新たな対象を探します。

これは、程度の差はあれ、どこでも見受けらる普通の出来事です。
進化と言っていいのかどうか分かりませんが、極論で考えてみると、色々な出来事の流れが見えてきます。

ちょっと冷静に、客観的に物事を見てみると、今まで理解できないと思っていたことも案外理解できることも多いです。
これもまた、学習の一種なんですけどね。

win winの関係

個人的な話しなんですが、出勤途中に時々遭遇する車があって、そんなつもりは毛頭ないのですが、道を譲ってくれるんですよね。
車を寄せてハザードを点灯させ、僕の車を先に行かせたのを確認してからまた発進。
最初はえーっって思ったんですが、何回も続くといい関係だなと思っちゃうもんですね。
多分ですが、相手は後ろについてもらいたくない、
僕はもらえるものはもらっておく、
だからお互いにメリットだけ、
これこそ、win winの関係。
個人的な考え方なんですが、物事がスムーズにいく考え方だと思っています。

ちなみに煽り運転はしていませんよ、一応念のため。

駅のエスカレーターでもそうです。
公共交通機関ですので、どれだけ急いでいても駅に着くのは皆同じ。
でも、駅に着いた後は個人の都合次第です。
急いでいるなら、中部地区は道路と同じ。
関西地区はそれとは逆。
それ以外の地区はちょっと分かりませんが、その地区に合わせたローカルルールに合わせなければいけないでしょうね。
色々な意見はあるでしょうが、スムーズに進むと思います。
まあ、さらに個人的な意見を述べるなら、邪魔をされたくなければ階段を使え、ですかね。ちなみに本当に急いでいるときは僕は迷わず階段を使っています。
個人の努力でどうとでもなりますし、邪魔だなと思うのは勝手なこっちの都合でしかないですからね。

僕の考え方と全く違うのが、みんな一緒に、という考え方ですかね。
もしくは、自分と同じに、ですね。
この考え方、思考の持ち主の方とは、接触を極力避けています。
大抵、この考え方、思考をお持ちの方は、周りとのトラブルが耐えません。
なぜなら、積極的にアピールするんですよね。
みんな一緒に、だから仕方ないんですが、見ていて気分が悪くなるだけですからね。
ですから、避けます。逃げます。

自分にとっての、もっともよい手段をもちいればトラブルに巻き込まれる可能性は減らす事ができます。ここは個人の努力次第ですね。

続かない(行動)のはその人の目的(思考)に合っていないから

僕は学生時代から喫煙とお酒は普通に嗜んでいました。
喫煙に関しては、吸った後の部屋の臭いが嫌で基本的に外でしか吸っていませんでした。部屋に遊びに来る友人たちにも強要していたので不評でしたが・・・。
一応、当時から気遣いはしていて、一言声かけてから吸っていましたね,
嫌だと言われたら吸わないみたいな感じでした。
僕にとっては当時からそれが当たり前であって、我慢をしているわけでもありませんでした。
ですから、必然的に全く吸わない日も当時からあり、それが当たり前の日常でした。
年を重ねる毎に吸わない日が増えていき、最終的には平日に一日一本だけという、まるで高尚な趣味の域までいっちゃいましたね。
飲み会では最初の頃は吸っていましたが、嫌がられたら吸わなくなるのが当たり前になって、その場でも当時は話していましたが、そこまでいくと吸わないメリットもないし、吸うデメリットもないから止めないだろうな、なんて話していました。

で、全く吸わなくなって、早数年の現在です。
いやあ、まさか吸う場所がなくなるのが吸わなくなる理由になるなんて思いもしませんでした。
吸わないというストレスも、全くありません。まあ、当然ですよね。

お酒に関しても、学生時代から普通の学生のように頻繁に飲み会に参加して飲んでましたね。
当時、先輩がお酒が非常に強くて、めっちゃ鍛えられました。
ですが、中学時代に塾の先生がお医者さんでもあり、その先生に急性アルコール中毒の話しを中学時代に聞かされていて、飲めないという人に無理に飲ませるなと言われていました。
ですから、飲めない人の立場も理解できていたので無理強いはしませんでしたね。
ありがたい知識を頂いて自然に行動できているんですが、改めて考えてみると、中学生に何話してんのなんて思っちゃいますね、
本当にありがたいんですけどね。
家でもほぼ毎日飲んでいたんですが、それがここ半年ほど飲んでいないんですよね。
もちろん、飲まなければならない場では飲んでいますが、家で飲まなくなっちゃったんですよ。
場所がなくなったでもなく、お酒も家にあるんですが飲んでいないんです。
飲みたいと思わない、そんな最近の毎日ですかね。
もちろん、健康を害したなんてことも全くありません。

人は、基本、思考があって、そこから行動と感情が決まってきます。
ですから、思考が変わらない限り、行動はパターン化されます。
ゲーム、シルバー、映画、読書等々僕がハマった趣味ですが、全くやらなくなったものもあるし、買わなくなった、買うだけで観てない、買うスピードに消化するのが追い付かない、なんてそんな状況も以前からありました。
溜まっていく一方であり、集めるのが趣味なのかも、なんて状況ですね。

なんとなくですが、ああこういうわけで色々この人は止めていくのね、なんて予測できませんか。
僕も我ながら書きながらある一言が浮かんできました。

人は体験談を聞かせる、聞きたがるという面がありますが、あまり意味があるとは思えません。
思考が似通っていれば行動も感情も似通ってきますが、
思考が違っていれば、行動も感情も違いますので、理解に苦しみます。
理解できないわけではないんですが、あまりにヒドイと理解するのを放棄します。
疲れますよ、思考が違っている人と常に一緒にいるなんて、
喧嘩するななんて、そりゃ無理だわって話ですよ。
喧嘩しない為に我慢してその行動を常に見続けるわけですよ、
そりゃストレスも溜まりますわ、なんて言いたくなりますよね。
類(思考)は友を呼ぶ、なんて言い換えてもいいんじゃないですかね、
なんてちょっと大袈裟に書いちゃいましたが。

その人の今までの続かなかったエピソードを知ることにより、
その人の今までの続かなかった思考が理解できることによって、
その人のこれからの続けたくない習慣を思考に基づいて形成していく、
つまり、
数多くある、止める為の方法を、
自分の思考に基づいて選択する、
それが一番の近道であり、続くのではないでしょうか。
逆に言うなら、その習慣が思考にマッチしているなら、
その習慣を変えるのは非常に難しいでしょうね。
余程のことがない限り、改める必要性がありませんから。