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”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

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航のこらむ
サイト管理人のこらむです。
読み物として見て下さい。何かヒントになるかもしれません。
少しでもあなたの助けになれば幸いです。

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奇数だから?!

“ドリカムが昔3人だったって最近の子は知ってるのかな?”
なんて会話が出ました。

“それを言ったらポルノグラフィティだって、ELTだってそうだよねぇ”

で、ちょっと考えて、

“ひょっとかしたら、3人って数に問題があるんじゃないかな。
二人が仲良くて、一人が離れてくってあるのかもしれないよね。”

なんて話したら、納得していました。

親密になるのには、会話は欠かせません。
話し手と聞き手、やはり二人です。
カウンセリングも基本、二人です。
そういえば、一人っ子も寂しいと聞きます。

自分で話しながら、けっこう思い当たる事がどんどん出てきました。
一因としてはあるかもしれませんね。

余計な事をしない

この前の事なんですが、ある人と何気ない会話の中で、その人に聞かされた言葉があります。

“余計な事をしない”

その人はよかれと思ってある行為をしたんですが、それが相手には余計な行為だったみたいでトラブルになってしまったそうです。
その人はいい事をしたと思っていたので、人の好意を踏みにじるひどい相手だと憤っていた、とのことです。
でも、トラブルになってしまったのは事実です。
トラブルになってしまった以上、解決するしかありません。
そして、上司に言われたそうです。

“余計な事をしない”

よかれと思った好意はあくまでも自分の考えです。
相手が望んだものではありません。
なら、自分の好意は相手にとって余計な事だったわけです。
余計な事さえしなければ、トラブルにならなかった、というわけです。

それはこの人にとって、ストンと落ちた言葉だったんでしょう。
それからはこの言葉に従って行動して、この人なりに他人との付き合い方が上手くいくようになったみたいです。

こんな経験ってかなり多いんじゃないでしょうか。

余計な事をしてしまうから、問題がこじれてしまう。
余計な心配をするから、相手に苛立ってしまう。
余計な気遣いをするから、何も出来なくなって勝手にイライラしてしまう。
余計な事を考えて、今まで築き上げた関係をダメにしてしまう。
余計な手伝いをして、相手の成長を妨げてしまう。

しかし、このような問題が解決する時は、拍子抜けするぐらいアッサリ解決します。
どうしてなのか?
それは、勝手に自分が問題視してるだけだからなんです。
実際、起きてる事実としての事柄は変わらないんです。
あ、これは余計なんだと気づいた時、今までのわだかまりが驚くぐらいなくなっちゃいます。
数年、もしくは数十年のわだかまりが、です。

言葉とは力を持っています。
いい方向に働けばいいのですが、悪い方向に働いてしまう呪縛にもなってしまいます。

新しいものを手に入れた時って無性に使いたくなっちゃいませんか?
僕はしょっちゅうあります。
飽きるまで使って、やっと適度な距離感が分かります。

最初は呪縛でも、仕方ありません。
距離感を図りかねているんです。
これはこうだからと、言い訳するようになったらちょっと危険なサインです。
自分に言い訳しなければならない事は、到底他人も納得できない事が多いです。

調味料を入れて、自分好みの料理の味付けをします。
その味は、自分好みの味でしかありません。
その味付けを他人に押し付ける人ってそれほどいないんではないでしょうか。
さりげなく、脇に調味料を置いておく、そんなスタンスっていいですよね。

クラクション(スキル)の使い方

以前ある知り合いに聞いたんですが、その人は車のクラクションを鳴らさないそうです。
鳴らされた相手が嫌な気持ちになるからとの事でした。
当時はなるほどねぇと聞いていたんですが、そうかもしれないし、違うかもしれないんですよね。
確かに相手が嫌な気持ちになるかもしれませんが、それはこちらには分からない事なんです。
なるかもしれないし、ならないかもしれない、感じるのは相手の自由なんです。

嫌な気持ちになったのは、以前自分が鳴らされた時の事なんです。
自分が嫌な気持ちになったから人にはそんな気持ちをさせたくない、だから自分は鳴らさない、そんな思考の流れだったんでしょうね。

でも、いずれ葛藤が生じるんです。

誰でもなんですが、信号待ちでぼーっとする時ってありますよね。
その人の前にたまたま青信号なのに動かない車があったとしたら、その人は一体どうするんでしょう。

そのまま待つんでしょうか?
それともクラクションを鳴らしてみて、新たなクラクションの可能性を手に入れるんでしょうか?

なんてちょっと大袈裟に感じるかもしれませんが、なにげなく過ぎていく日常の中にこそ、ちょっとしたつまずきがあるんです。
その時こそ、つまずいた内容を見直すチャンスです。
つまずかせているのは、他でもない、自分自身の思考なんです。

見直せるのは自分しかいません。
自分にとって、もっとより良い方法で日常生活を送ってみませんか?

なんて、通勤途中にクラクションを鳴らされてちょっと考えてみました。
ちなみに僕は嫌な気持ちにはなりませんでしたね。

頑なには(本人なりの)理由がある

頑なな態度を取る人っていますよね。
"なんであんな頑ななんだろう、理解できない"
なんて思わず思っちゃいますよね。
でも、それってお互い様なんです。

だって、相手も頑なに拒否しているなら、こちらも頑なに言うこと聞かせようとしているんです。

こちらに理由があるのなら、もちろん相手にも理由があるわけです。
ただそれが何か分からないだけなんです。

もし、その理由を知りたいなら相手に聞くしかありません。
どれだけこちらが困っているか説明して、そして相手の頑なな理由を聞いてみるんです。
もちろん、相手も同じような手順になります。
そして、お互い歩みよれるようにして問題解決に向かいます。

どちらも困っていて、なんとかしたいという思いは共通なんです。
ただ、それが何か、お互いに理解り合えてないんです。

なんて考えてみると、歩みよってみようと思えませんか?

こちらが歩みよると、向こうも歩みよろうとします。
こちらが拒絶すると、向こうも同じように拒絶します。

どうせ困るなら、より建設的な事で困りたいですよね。

事故の衝撃

個人的な事ですが、昨日、仕事帰りに交通事故にあいました。
車で信号待ちをしている時に、後ろからの追突です。
いやあ、本当に頭にくるものですね、こちらに全く非がない時というのは。
完全に相手の前方不注意、10対0の被害者と加害者の関係の出来上がりです。

感情というものは、自然と湧き上がってくるものです。
今回は一方的に車をぶつけられたという怒りの感情が出てきました。
なんて、後でこうやって書いていますから怒りという一言で表せますが、
ようは、その場で感じた事を、そのまま出すという事が大事という事です。
湧き出てきたものをそのまま出すと、自然と収まるものです。

ここで面白いのは、湧き出てきたものをそのまま出すという事は、
自分にとって良い事も悪い事も全てという事です。
良い事か悪い事かというのは既に思考で判断してしまっているので、
湧き上がってきた感情とはちょっと違っています。
自分にとって悪い事を認めるというのは、なかなか出来る事ではありませんが、
それが出来ると出来ないとでは結果がかなり違ってきます。
自然と収まる人、自然と収まらない人、
つまり、一例で例えるなら、
愚痴になるかならないか、なんていえるかもしれませんね。

ちょっと脇道にそれてしまいましたが、
被害者である僕は怒り、
加害者である相手は、自分のしでかしてしまった事を謝罪する。
それで自然と終わりになるものなんです。
もし、自然と終わらないなら、余計な事をしてしまっているんです。
もちろん、あくまでも湧き上がってきた感情の処理の話しです。
ですが、この処理が出来ると出来ないとでは、
問題がこじれるかこじれないかを大きく左右します。

感情の処理が済んだら、後は事故そのものの処理です。
これは事務手続きみたいなものです。
交通事故という事実があり、その事実を法律に照らし合わせて処理する。
客観的であり、主観が入り込む余地がないから、その事実が自然と収まるところに収まる。
収まらないということは、余計なことをしているんです。

なんて、ちょっと解説っぽく書いてみましたが、
何も問題が起こらない時はスムーズに物事が進むものです。
自然と収まるところに流れていくものなんです。
ですから、今回の交通事故の処理はスムーズに流れていきました。
スムーズに流れていき、それで終わりです。

収まるところに収まらないのは、余計な事をしてしまっているんです。
なんでいつも問題がこじれるんだろうではなく、
自ら余計な事をして、問題をこじらせてしまっていると考えてみると、
問題点がはっきりして、ちゃんとした処理が出来るものです。
流れに逆らわず、収めてみませんか?