free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

愛知県一宮市今伊勢町新神戸
郷浦11-1明和ハイツ203号
                  TEL.0586-43-0848

相談、質問

愚痴は毒となり呪詛となる

僕は愚痴を吐くを毒を吐くと同等みたいにこのこらむで書いてきましたが、どうも最近場合によってはそれ以上にヒドイ状態もあるみたいだと認識を改めました。
人間というものは基本楽をしたい生き物だと、僕の中では認識しています。
楽をしたいからどんどん技術は進化していき、その技術にあっという間に適応していき、それまでの生活水準には戻れなくなっていく、そんな生き物だと思います。
楽を覚えれば楽をしないにこしたことはない、基本そんなとこではないでしょうか。
もちろん、全てがそうだとは思いませんが、学習するという前提ですと、そうなっちゃいますよね。それを否定しちゃうとちょっと色々と困ってしまうことになっちゃいますしね。

愚痴を溜め込むのはもちろん先々のことを見越すと問題なんですが、愚痴を吐き続けるのももちろん問題です。
溜め込むと毒ですから吐かなければ体内に毒を溜め込むことになります。
その毒が溜まることにより、医学的臨床データでは異常が表れない身体の異常がいずれ表面化してきます。
データ上は異常がないからお医者さんも問題ありませんとしか答えてくれません。
ですが、実際身体の異常は症状として出ています。
あとは答えを探し求める無限ループに突入となっちゃいます。
身体の異常を直したいという目的が、信じてもらえないので、いずれ症状の答えを探すという目的に変わってしまいます。
そして長い時間をかけ、苦労して症状の正体が分かると、信じてもらえなかった分、その答えの正当性を訴えることに力を注いでしまいます。
元々は、身体の異常を直すという共通目的があったのに、いつの間にかズレが生じ、いずれ決定的な決別となってしまいます。
そんな経験を体験してしまうと、それを学習し、二度と繰り返さないと自分の中で決めます。誰だって嫌な思いなんてしたくありませんからね。これが信念というものです。
嫌な思いをしただけ、強固な信念の出来上がりです。
もちろん、悪いわけではありません。
ただ、度を越す信念もまた、いずれ問題となります。

その度を越えた信念が、愚痴どころか、毒ですら甘く、まさに呪詛とも言えるぐらいのものを周りに撒き散らす結果をもたらします。
もちろん、本人はそんな自覚はありません。
自覚があるなら、誰だってそんなことしませんよね。
自覚がないからこそ、問題なんです。
しかし本人以外の周りは、同じ感覚を味わいます。
そこまで言う、そこまでやる、と。
それは、まさに愚痴どころではなく、毒でも生易しい、まさに呪詛と表現しても過言ではないものです。
自覚がないから、他人からの指摘に力一杯抵抗します。
二度と嫌な思いをしたくないという、自己防衛に基づいた信念の結果の行動です。
それを否定されるということは、また同じ嫌な思いをしてしまうかもしれません。
ですから、本人は過剰なほど抵抗します。
そこに、周りとのズレが生じます。
親しくない人は我先にと逃げ出し、親しい人も、なんとかしたいという思いから妥協しながら付き合います。
しかし、あくまでも妥協ですからいずれ、限界がきます。
だって、毒どころか、呪詛を聞き続けるわけです。
普通に考えて、耐えられるわけないですよね。
で、いずれ距離をとります。
それは仕方ないことなんです、生物として、自分が一番なのは当然なんです。
ですが、吐き続ける本人は自覚がないから、さらに他の新たな対象を探します。

これは、程度の差はあれ、どこでも見受けらる普通の出来事です。
進化と言っていいのかどうか分かりませんが、極論で考えてみると、色々な出来事の流れが見えてきます。

ちょっと冷静に、客観的に物事を見てみると、今まで理解できないと思っていたことも案外理解できることも多いです。
これもまた、学習の一種なんですけどね。

win winの関係

個人的な話しなんですが、出勤途中に時々遭遇する車があって、そんなつもりは毛頭ないのですが、道を譲ってくれるんですよね。
車を寄せてハザードを点灯させ、僕の車を先に行かせたのを確認してからまた発進。
最初はえーっって思ったんですが、何回も続くといい関係だなと思っちゃうもんですね。
多分ですが、相手は後ろについてもらいたくない、
僕はもらえるものはもらっておく、
だからお互いにメリットだけ、
これこそ、win winの関係。
個人的な考え方なんですが、物事がスムーズにいく考え方だと思っています。

ちなみに煽り運転はしていませんよ、一応念のため。

駅のエスカレーターでもそうです。
公共交通機関ですので、どれだけ急いでいても駅に着くのは皆同じ。
でも、駅に着いた後は個人の都合次第です。
急いでいるなら、中部地区は道路と同じ。
関西地区はそれとは逆。
それ以外の地区はちょっと分かりませんが、その地区に合わせたローカルルールに合わせなければいけないでしょうね。
色々な意見はあるでしょうが、スムーズに進むと思います。
まあ、さらに個人的な意見を述べるなら、邪魔をされたくなければ階段を使え、ですかね。ちなみに本当に急いでいるときは僕は迷わず階段を使っています。
個人の努力でどうとでもなりますし、邪魔だなと思うのは勝手なこっちの都合でしかないですからね。

僕の考え方と全く違うのが、みんな一緒に、という考え方ですかね。
もしくは、自分と同じに、ですね。
この考え方、思考の持ち主の方とは、接触を極力避けています。
大抵、この考え方、思考をお持ちの方は、周りとのトラブルが耐えません。
なぜなら、積極的にアピールするんですよね。
みんな一緒に、だから仕方ないんですが、見ていて気分が悪くなるだけですからね。
ですから、避けます。逃げます。

自分にとっての、もっともよい手段をもちいればトラブルに巻き込まれる可能性は減らす事ができます。ここは個人の努力次第ですね。

続かない(行動)のはその人の目的(思考)に合っていないから

僕は学生時代から喫煙とお酒は普通に嗜んでいました。
喫煙に関しては、吸った後の部屋の臭いが嫌で基本的に外でしか吸っていませんでした。部屋に遊びに来る友人たちにも強要していたので不評でしたが・・・。
一応、当時から気遣いはしていて、一言声かけてから吸っていましたね,
嫌だと言われたら吸わないみたいな感じでした。
僕にとっては当時からそれが当たり前であって、我慢をしているわけでもありませんでした。
ですから、必然的に全く吸わない日も当時からあり、それが当たり前の日常でした。
年を重ねる毎に吸わない日が増えていき、最終的には平日に一日一本だけという、まるで高尚な趣味の域までいっちゃいましたね。
飲み会では最初の頃は吸っていましたが、嫌がられたら吸わなくなるのが当たり前になって、その場でも当時は話していましたが、そこまでいくと吸わないメリットもないし、吸うデメリットもないから止めないだろうな、なんて話していました。

で、全く吸わなくなって、早数年の現在です。
いやあ、まさか吸う場所がなくなるのが吸わなくなる理由になるなんて思いもしませんでした。
吸わないというストレスも、全くありません。まあ、当然ですよね。

お酒に関しても、学生時代から普通の学生のように頻繁に飲み会に参加して飲んでましたね。
当時、先輩がお酒が非常に強くて、めっちゃ鍛えられました。
ですが、中学時代に塾の先生がお医者さんでもあり、その先生に急性アルコール中毒の話しを中学時代に聞かされていて、飲めないという人に無理に飲ませるなと言われていました。
ですから、飲めない人の立場も理解できていたので無理強いはしませんでしたね。
ありがたい知識を頂いて自然に行動できているんですが、改めて考えてみると、中学生に何話してんのなんて思っちゃいますね、
本当にありがたいんですけどね。
家でもほぼ毎日飲んでいたんですが、それがここ半年ほど飲んでいないんですよね。
もちろん、飲まなければならない場では飲んでいますが、家で飲まなくなっちゃったんですよ。
場所がなくなったでもなく、お酒も家にあるんですが飲んでいないんです。
飲みたいと思わない、そんな最近の毎日ですかね。
もちろん、健康を害したなんてことも全くありません。

人は、基本、思考があって、そこから行動と感情が決まってきます。
ですから、思考が変わらない限り、行動はパターン化されます。
ゲーム、シルバー、映画、読書等々僕がハマった趣味ですが、全くやらなくなったものもあるし、買わなくなった、買うだけで観てない、買うスピードに消化するのが追い付かない、なんてそんな状況も以前からありました。
溜まっていく一方であり、集めるのが趣味なのかも、なんて状況ですね。

なんとなくですが、ああこういうわけで色々この人は止めていくのね、なんて予測できませんか。
僕も我ながら書きながらある一言が浮かんできました。

人は体験談を聞かせる、聞きたがるという面がありますが、あまり意味があるとは思えません。
思考が似通っていれば行動も感情も似通ってきますが、
思考が違っていれば、行動も感情も違いますので、理解に苦しみます。
理解できないわけではないんですが、あまりにヒドイと理解するのを放棄します。
疲れますよ、思考が違っている人と常に一緒にいるなんて、
喧嘩するななんて、そりゃ無理だわって話ですよ。
喧嘩しない為に我慢してその行動を常に見続けるわけですよ、
そりゃストレスも溜まりますわ、なんて言いたくなりますよね。
類(思考)は友を呼ぶ、なんて言い換えてもいいんじゃないですかね、
なんてちょっと大袈裟に書いちゃいましたが。

その人の今までの続かなかったエピソードを知ることにより、
その人の今までの続かなかった思考が理解できることによって、
その人のこれからの続けたくない習慣を思考に基づいて形成していく、
つまり、
数多くある、止める為の方法を、
自分の思考に基づいて選択する、
それが一番の近道であり、続くのではないでしょうか。
逆に言うなら、その習慣が思考にマッチしているなら、
その習慣を変えるのは非常に難しいでしょうね。
余程のことがない限り、改める必要性がありませんから。

自分に問いかける

今回は、せっかくお問い合わせ頂いたのに、中にはメール返信出来ない方とかがおられます。
そんな方たちにこの場を使い、考え方のひとつの手段としての、問いかけを記してみたいと思います。
どの場面でも活用できるスキルとして有効ですので、一度お試しいただければ幸いです。

(誰かの手前)何々しなければならない、何々するべきである等々
と考え、行動に移してしまっていませんか?
それで問題なく出来ていればよいのですが、
出来ていないから、今の状況を招いてしまっていませんか?
それは、あなたが本当にしたいことなんでしょうか?
本当にしたいことが薄々分かっているからこそ、今の状況に陥っていませんか?
もし、あなたの知り合いの方が、あなたと同じ状況に状況に陥っていたら、
あなたはその方に、どのように答えてあげますか?
その答えを自分に適用してみませんか?
その答えを自分に適用しないのはどうしてですか?
知り合いの方が同じように適用しなければどう感じますか?
出来ないことで、あなたに本当に責任があるのでしょうか?
世間一般的に考え、あなたが本当に背負いこまなければならない問題なのですか?
出来ないことで、自責の念にかられていませんか?
あなたが信頼できる人に、あなたが本当にしたいことを話したら、反対されるのでしょうか?
世間一般的にみて、どちらに非があると思いますか?
世間一般的にみて、相手に非がある出来事を背負いこみ、苦しんでいませんか?
それは、本当にあなたが苦しまなければならないことなんですか?
その重荷を降ろしたからといって、あなたは世間一般的に批判されるのでしょうか?
その重荷を降ろしたからといって、あなたが信頼する人は批判するでしょうか?
あなたが信頼する人が同じような状況に陥り、
その重荷を降ろしたからといって、あなたは信頼する人を批判しますか?
無理に納得した答えが、
はたしてこれから先のことを考えた時、新たな障害になりませんか?
感情を抱くことと、感情のままに行動に移すことを同じと考えていませんか?

等々、自分に問いかける質問はいくらでも作れると思いますので、
ひとつの参考として活用して頂ければ幸いです。

「守れない」→「守らない」、「許せない」→「許さない」

以前にも書かせてもらいましたが、ずいぶん前から早起きする習慣をつけ、けっこうな頻度でこのこらむも朝の時間を使い更新しています。
そんな早い時間から車の運転をしていると、時々とんでもない運転をする車を見かけます。
今朝もそんな車を見かけました。
今朝は朝から雨が降っていて、交通量はいつもより多めです。
僕は直進ですので、信号が変わり、右折信号が出てからもしばらく待っていました。
右折する車もいないようです。
すると右折信号が消えてから、とんでもないスピードで、右折ラインから一台の車が直進していきました。
信号が切り替わる少しの時間を見越してでしょうが・・・。

ホント、時々見かけます。
あえて言わせてもらいますが、バカ野郎です。
こんなバカ野郎が勝手にどうなろうが知ったこっちゃないですが、一歩間違えれば大事故です。
バカ野郎が勝手に自爆するのは自己責任ですので知ったこっちゃないですが、巻き込まれたらたまったもんではありません。
ふと、もし、巻き込まれた事故を目撃した時、僕自身はどんな行動を取るだろうと考えました。
僕はそんなバカ野郎は「許せない」ので、そんな理不尽な事故を見過ごすことが出来ず、あえて証言するだろうなと思いました。
まあ、僕自身の普段の行動を考えたら、そうするでしょうね。
でも、それはあくまでも勝手な僕の我儘であって、どうこう言うものでもありません。
僕の思考に基づいて、見過ごすと「気持ち悪い」からであって、
どこまでいっても自己満足でしかありません。
ですから、そのあとの予定に関しては、ひたすら謝るの一点でしょうね。
自分の我儘によって、後の予定をないがしろにしているわけですからね。
なんてことまで考えてしまいました。

戻しますが、道路交通法ですら守れない人が、
罰則もついてない、ルール等を守ると思いますか?

僕は、「守れない」と思います。

言い方を変えてみます。
「守れない」ではなく、
「守らない」です。

もう一度、書きます。

僕は、「守らない」と思います。

どうですか?
言い方一つで印象が変わりませんか?

ついでに、もう一つ、

僕は
「許せない」ではなく、
「許さない」です。

僕の、ちょっと考えたという行動に一貫性が出ていませんか?

誰にでも譲れないものがあると思います。
僕にとってはこの点が、とりあえず譲れない点なんでしょうね。

貴乃花親方も同じなんではないでしょうか?
とんでもない重圧だったと思います。
下げたくない頭も下げ、重々考え、熟考も重ね、身近な人たちとも相談を重ね、取った行動ですから、
尊重してあげてもいいのではないでしょうか。
ですから、
お疲れさま、
いままでよく頑張りましたね、
でいいのではないでしょうかね。

呪いの藁人形!?

以前もこらむで書いたと思いますが、車中はラジオをつけています。
けっこう有効なネタを提供してもらえて、僕的にはかなり重宝していますね。
で、今回もラジオから仕入れたネタで書かせてもらおうかなと思っています。

藁人形、です。
それも、呪いの藁人形です。
オドロオドロしいですねえ。
しかし、使うと使わないではストレスの減り方が
33%も違うというデーターが出たそうです。
どうですか、この数字!!
使わない手はありませんよね。

なんて、ちょっと悪ノリしてしまいましたが、
別段不思議な話でもなんでもないんです。
当たり前な、ストレス解消の一つの手段でしかないんです。

溜め込んでしまったものは、自然には消化されません。
当人の努力によって消化されるにすぎないんです。
知識を得る、気づきを得る、吐き出す、
腑に落ちるという表現がありますが、
本当に、心底納得するときはそんな感覚を味わいます。
で、その感覚を得たなら、悩みなんて解消されちゃっています。
納得できないからいつまでもどっかにひっかっかっちゃっているんです。

吐き出すという行為は、お酒の席でも有効ですね。
真剣に悩みに向き合うと、自然と感情は昂ります。
普段は意識して押さえていた感情がひょこっと顔を出します。

イメージしてもらうのは、狭いお風呂ですかね。
膝を曲げないとお湯につかれない湯船なんて最高ですね。
お湯から曲げた膝がひょこっと出ています。
まるで氷山の一角状態ですね。
水面が普段自分を押さえつけている、自分の中の常識のラインです。
道徳とか、規律とか、まあもろもろですかね。
それに当てはまるものは水面から上に、
当てはまらないものは水面から下に押し込まれます。
水面から上は意識、
水面から下は無意識、
浅瀬は前意識、
となります。
さて、お酒はそのラインをちょこっとだけ下げてしまいます。
普段は頑張って隠されている、氷山の一部が顔を出しちゃうんです。
それが、前意識となります。
普段隠しているもの、
そりゃ、酒癖悪くなりますよね。
でも、出しきるとかなりスッキリします。
ちなみに泣く行為は個人的見解ですが、
真剣さが増すほどカウンセリングと同じ効果はあると思います。
押さえ込まずに、ありのまま出しきる、ですね。
で、泣くぐらいならいいのですが、
暴力を伴ったのは、ちょっと頂けません。
他人の権利を無視していますからね。
それは許されることではありません。

で、藁人形です。
これはかなりいいと思いますね。
ちょっと取り入れたいと、真剣に検討しています。
途中で気づくというのもいいですしね、
そこまでやる必要あるのかな、と。
そこで気づきを得たならそれでよし、
やり抜いてスッキリするならそれもよし、
自分の悩みに自分で答えを出す、
理にかなってますよね。

生活苦の姉が金の無心

今回のねえねえちょっとの内容は個人的にも思うところがあり偏った内容かもしれませんが、そこも含めて読んでいただければ幸いです。

一人暮らしを始めた姉が、多いときは週に2~3回、私のところにお金を借りにきます。
食費や娯楽費が自分の給料では間に合わないとのこと。
私自身も給料が少なく生活は苦しいのですが、助けてあげたくて何度かお金を貸しました。
でもそのことは両親には内緒です。
姉から私の携帯に電話が入るたびに苦痛です。

身近な人が困っていたら、なんとかしたいと思ってしまいますよね。
でも、人が人にできることは本当に限られた事しかありません。
例外はありません。
ギブアンドテイク、お互いイーブンでなければいずれ破綻します。
一方的に我慢を強いられるなんて、耐えられるわけないですよね。
貸したものは返さなければならない、
当たり前だと思っているかもしれませんが、
それができるなら、そもそもお金に困ることなんてありません。

さて、そんなことは既にこの方は理解しているのではないでしょうか。
両親と姉は既に揉めている、
自分の行為を知ると両親に怒られるから内緒にしている、
姉に口止めされている、
そんなとこではないでしょうか。
いずれにしても、誉められた行為ではないと自覚しているのではないでしょうかね。
食費や娯楽費、
思うところがあるような気がします。

さて、あとは覚悟の問題です。
このまま続けるなら、貸しではなく援助と自覚するしかありません。
今は返してもらえてるかもしれませんが、近い内返ってこなくなるでしょう。
既に返ってきてないかもしれませんが・・・。
もう嫌だ、
そう思うなら、キッパリ断るしかありません。
ただし、貸したものを返してもらう、
そんな甘い思いはサッパリ忘れたほうがいいでしょう。
なんとかなるなら、週に2~3回も借りにきません。
自分の行動は自分で責任を持つ、
当たり前のことですが、他人が関わると忘れがちになってしまいます。
貸したのは自分の意思、
返すのは相手の意思、
相手に委ねている以上、返ってこなくても仕方ありません。
キズはより浅いほうが治りが早いです。
少しでも、早めに処置をすることをお勧めします。

義母が植え込み私物化

今回は ねえねえちょっとの質問を考えてみたいと思います。

義母が自宅前の歩道の植え込みを私物化して困っています。
初めは花を植え、最近は苗木を植え支柱まで立てて、自分の庭のようにして手入れを楽しんでいます。
近所の方は、「きれいだね」と褒める方もいますが、「ちょっとやり過ぎ」という声も聞こえてきます。
義母は自分は正しいと思っているので、家族の意見は聞きません。

なかなか難しい問題ですよね。
自分が正しいと思っているなら、それを自分が止めるなんてありえませんよね。
だって、正しいんですもん、本当かどうかは別として。

さて、そんな自分は正しいと思っているらしい義母の行動をどのように止めさせたらいいのでしょうか?
と、勝手に止めさせたいと書いてしまいましたが、そこまで書かれていませんがその流れで進めたいと思います。
といっても、最終的にはどうするかになるとは思いますが。

家族の意見を聞かないので、それなら意見を聞かなければならない立場の人に登場してもらえばいいんです。
つまり、本来の所有者である、役所関係の方に。

告げ口みたいで嫌だと思うかもしれませんが、
そこで話しあえばいいのではないでしょうかね?
義母には義母の言い分があるでしょうから。
ダメならダメ、良いなら改めて許可をもらう。
それでスッキリするんではないでしょうかね。

自分でダメで止めず、使えるものは使う、
問題を解決する一つの手段として活用してもらえば幸いです。

勝手に問題を作る構造

昨日のことですが、ちょっと面白いことを経験しましたので早速書いてみたいと思います。

当人同士の間で、指示をし、それに従って行動していたのに、それを見ていた第三者が何かあったと勝手に勘違いし、すぐに様子を見に行く、という行動を取りました。
もちろん、何も問題があるわけありません。
簡単な指示を出し、それに従った、ただそれだけです。
ですから、すぐに戻ってきました。

ただ、その一連の行動全てを、その指示を出した当人である僕が見ていた、ただそれだけです。

もちろん、勝手に勘違いする理由もあるでしょう。
ですが、問題もない出来事に、
勝手に自分の価値観で判断し、
勝手に問題として見てしまい、
勝手に問題を捏造してしまい、
勝手に行動し、
その一部始終を当人の目の前で行い、
勝手に終わらせる。

流石に、目の前でされるとイラッとした感情になりますね。
まあ、いい例を提供してもらえたと、考え直しましたが。

どんな場面においても、
人は思考に基づいて行動します。
ですから、この人は、間違いなく、
どんな場面においても
同じ行動を取ります。
今までも、これからも。
思考を改めない限り。

たまたま今回は僕でしたが、
今までも同じようにイラッとした人はいるでしょうね。

問題を勝手に作ってしまい、
新たな問題に気づかず、
そのまま放置してしまう。

構造は至ってシンプルなものです。
気をつけましょう。

もちろん、自覚さえしていれば
何も問題はありません。

問題なのは、
無自覚、
それが一番の問題です。

内からでてくるもの

個人的な話しですが、僕はけっこう新しいものが好きで、電子書籍が出た当初も真っ先に飛び付いたものです。
本当に簡単にデータとして本が買える手軽さから、それまで全く手を出さなかったジャンルの書籍も購入するようになって、怖くて自分が今の時点で何冊書籍を持っているか数えたくないくらい所有しています。
元々映画も好きで、DVDが出た当初から買い集めていたので、こちらもまた、目に見えて数多く所有しています。
もちろん、今はデータとして購入しているので、こちらもまた数えたくないですね。
それだけ所有しているので、もちろん見ていない作品も数多くあります。
時間くっちゃいますからね、見よう、読もうとするとどうしても。

さて、映画では僕の中で以前からあった兆候だったのですが、本においても初めて体験した経験があります。
うーん、入ってこないな、難しいなあというのは作品によってあるのですが、
気持ち悪い、という感情を文章で初めて経験しました。
作者の人の描写がスゴいんでしょうね、なんかリアルに感じすぎて、
気持ち悪すぎて、その本は読むことが僕にはどうしてもできませんでした。

その人の作品はそれ以前に購入していて、その作品は僕的には面白く読む事ができました。
かなりある意味リアルに突き詰めた作品だなとは感じましたが、
多分どこか作り物であると僕には思えたので、気に入った作品になったと思います。

で、二冊目を購入したのですが、
僕にはどうしても作り物と思えなくて、リアルに想像してしまい、
気持ち悪くて読めなくなった、そんな感じですかね。

その作品は僕にはダメでしたが、好きな人にはたまらない一冊なんでしょうね。
僕にとっての一冊目の作品のように。

カウンセリングで問題を解決するにおいて、
自分の中にあるものに真摯に向き合う必要があります。
自己洞察というものです。
何気ない日常においては無視するものですが、
問題が起こった時には避けては通れないものです。
目を背けたくなるぐらい、自分にとって嫌なものです。

その人の内にあるものなのか、
その作品の人物の内に深く潜ったものなのか、
そんな作品は、見るものを深く揺さぶります。

カウンセリングの場にいるように。