free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

愛知県一宮市今伊勢町新神戸
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対人関係

会話をして下さい

今回のコラムは、個人的なメッセージとして書かしてもらいます。

会話をする、コミュニケーションを取るという重要性というのは、当たり前だと思いますよね。
社会生活を送る上で、そんなの当たり前だよと思う時は、全く問題ない時です。
そんな時は、何も問題も負担もなく、愚痴とか不満を知ってか知らずか話しているものなんです。
それか、自分自身で問題を解決できている時なんです。
セルフケアというのが理想的ですからね。
自然治癒と言い換えてもいいかもしれません。
そんなスキルというのは、誰もが知らずに身につけているものなんです。

相手に気を使う、相手に対して話すと申し訳ないと思ってしまう、相手に負担を掛けたくない、心配させたくない、そんな時にこそ、そう自分が思える相手と会話をして下さい。
自分がどれだけ辛い思いをしているのか、自分だけで抱えこまないで下さい。
そう思う今の状況は、今のあなたの自然治癒能力をオーバーしているのかもしれません。
オーバーしてるゆえに、そんな自分を守るべき相手に見せたくないと思ってしまうものなんです。

とは言っても、自分の弱い部分を見せるというのは難しいものだと思います。
自分が守らなければならないと思っている相手なら尚更です。

難しいんですが、隠される方が相手にとっては負担に思う事も多々あります。
同じ生活を送っているなら、ほんのちょっとの生活のパターンの違いも気付くものではないでしょうか。
あれ、ちょっとおかしいなって思う時はあるものです。
いつもと違うぞ、気付くんですが、相手もまた、気を使って話さないんです。
指摘したら悪いなあなんて思ってしまのかもしれません。

これって、十分相手に負担を掛けてますよね。
少なくとも、守るべき相手に気を使わしてしまっているんです。

どうせ負担を掛けるなら、オープンにして負担を分かち合うようにしませんか?
あなたが守らなければならないと思える相手なら、その思いは通じるのではないでしょうか。
なぜなら、あなた自身が選んだ相手です。
なら、答えてくれるのではないでしょうか。
あなた一人では今の状況を解決するのは難しいかもしれません。
今までの問題を解決してきたスキルでは太刀打ちできない状況かもしれませんが、協力しあえば乗り越える事ができるかもしれません。

そういえばあの時、後で思い返すセリフ程、辛い思いをさせるものはありません。
辛い思いをさせたいんでしょうか?

辛い思いをさせたくないからこそ、自分が頑張るしかない、
それが全う出来るなら、全く問題はないです。
出来ない時こそ、出来なくなりそうだと思う時こそ、
会話をしてみて下さい。
最初のとっかかりだけが問題なんです。
とっかかりさえ乗り切れば、思いを吐き出せるはずです。

たった一歩なんですが、とてつもない一歩かもしれません。
踏み出しましょう、一歩を。
後は自然と流れていくものです。

なんて、偉そうにコラム書いてますが、
商売道具の名刺入れを飲み屋に忘れてきてしまいました。
僕もまた、反省しなければならないですね・・・。

 

 

世の中は"期待"にあふれている

個人的な事なんですが、最近ある出来事を知らされ、その内容に思わずがっかりしてしまいました。
どのような内容かは省かさせてもらいますが、僕にとっては残念に感じた出来事でしたね。

事実としての出来事は一つだけなんですが、個人個人によってその出来事の捉え方は違ってきます。
僕にとっては、その出来事に対してがっかり感が多きかったわけです。
どうしてがっかり感を感じたのか、それはそんな事はしないだろうという勝手な期待を相手にしていたんですね。
その期待を裏切られたように感じて、がっかりしちゃったわけです。
相手にとっては、自分の知らない所で勝手に期待されても、そんなの知らないよって言いたくなりますよね。
ちなみに、その場で僕と同じようにその出来事を聞いた人達もまた、それぞれ違った捉え方をしていました。

大事なのは、出来事に対してどう自分が感じようが、それはあくまでも自分個人の問題なんだと自覚する事です。
そして、自分が感じた事を相手に伝えるかどうかもまた、自分で選択できるということです。
伝えるのがいいのか、伝えないのがいいのか、自由に決めていいんです。
ちなみに今回の僕の選択は、相手に伝えない事を選びました。
なぜなら、自分の勝手な期待と気づいたからですね。
そして、その選択に対して、全く違和感を感じなかったからです。
もし、その自分の決定に違和感を感じるようなら、もう一度考えてみた方がいいかもしれません。
その違和感が"しこり"として自分の中に残ってしまうかもしれないからです。
"しこり"というのはやっかいなもので、相手との関係も変わってしまう事にもなりかねません。
それも一方的にですから、相手にとってはたまったものではありませんよね。

相手に対して怒るというのもまた、一因として期待を裏切られたという思いがあります。
怒って相手に伝え、自分の期待に沿うようにするんですね。
でも、怒るという感情は強い感情ですので、制御が効かなくなってしまう事があります。
あちゃあ、言い過ぎたなあと後で後悔してしまうんですね。
そして感情を出しすぎた分、不自然な程、まるで取り繕うような行動に出てしまいます。
優しくなりすぎたり、しゃべりすぎたり自分なりにバランスを取ろうとするんです。
周りに同意を求めたり、自分の怒りを正当化しようとしたりもします。
自分ではバランスを取ってるつもりですが、そんな時は大抵、アンバランスに周りは感じます。
言い過ぎたなと自分が感じたなら、感じた通りに素直に相手に謝るのが一番です。
言い訳をするなって、相手に言いたくなる時ってありますよね。
それと同じです。
自分に対して言い訳をしちゃってるんです。

事態が一向に改善されないなって思ってるなら、そんな時は相手に対する評価を見直すいい機会かもしれません。
過小評価しているのか、過大評価しているのか、相手の評価を決めるのもまた、他の誰でもない自分です。
過大な期待というのは、どちらにとってもあまりいい結果にならない事が多いです。
お互いが被害者と思ってしまうんですね。
世の中は"期待"にあふれています。
自分が出来る事、出来ない事、
相手が出来る事、出来ない事、
見極めるのもまた、自分だけです。

"変わりたい"

"こんな自分は嫌だ"
"変わりたい"
この仕事をするようになって、本当によく聞く言葉だと、改めて思います。
そのように思う事って、誰でも一度はあるか、あったんではないでしょうか?

ふと、自分に当てはめて考えてみると、僕にもはっきりと思い当たる出来事はありますね。
高校までの自分が思う自分って、けっこう人見知りで、言いたい事も言えない自分だったと思います。
自分で言うのなんですが、シャイボーイってんですかね。
それが大学に入って、結構の頻度でバイトに入るようになって、学校以外の人と知り合う機会が一気に広がりました。
そのバイト先の先輩で、人見知りとは無縁に見える先輩がいました。

"羨ましい"
"こんな風になりたい"
"あ、ここまで言っても大丈夫なんだ"

そう思った事を思い出します。
当時、その人のように振る舞ってみようと考え、行動を真似してみました。

結果、どうなったかというと、自分的には積極的になったと思います。
真似した当初はやり過ぎかなって自分でも思うぐらいの行動でした。
厚かましいってんですかね。
でも、時間が経つにつれ、上手くバランスが取れたと思います。

何かが変わる時には、足りなかった分だけ、反対方向に向いてしまうものだと思います。
今までの反動なのかもしれませんね。
しかし、それも最初だけです。
最初だけ乗りきれば、自ずとバランスを自分なりに取るものです。
折り合い地点を見極める、そんな感じですね。

さて、それでは今現在の自分はどうかなと、改めて考えてみると、更に変わっていると思います。
自分にとって、まずはそれを第一に考えて行動していますね。
もし、また不都合が出てくるようなら、変えるでしょう。
今のところ、その必要性はないですけどね。

ちょっと長くなってしまいましたが、"変わりたい"という思いには必ず比較対象があります。
僕の場合だと、知り合った先輩になりますね。
何かと比べるから、今の自分に満足できなくなってしまうんです。
現状に満足しているなら、そんな事は起きません。
"変わりたい"という思いは、周りからではなく、自分の中から出てくるものなんです。
自分の中から出てこなければ、"変わりたい"という思いを達成するのは難しいかもしれませんね。
周りがどのように思おうが、自分が必要ないと思うと、"変えない"、となってしまいます。
言い訳を探す、何かのせいにする、事実を歪曲してみる、正当化する、等々、
"変えない"という事に、必死にしがみつこうとしてしまいます。
周りとズレが大きければ大きい程、"変えない"為に使うエネルギーは莫大になっているでしょう。
"変えない"のは、下手すると、"変わる"以上のエネルギーを使っている場合もあります。
何もしていないはずなのに、疲れているという時は、何もしていないのではありません。
"変えない"という、その場で止まるという為に、エネルギーを使ってしまっているんです。
流れに逆らうのにエネルギーを消耗するって、もったいないですよね。

どうせ同じエネルギーを使うなら、自分が"変わりたい"という変化に使いたいですよね。
必ず、その思いが出てきたきっかけになる出来事があったはずです。
その出来事をもう一度思い出して、どんな自分になりたいのか、はっきりと目的を持って取り組んでみる。
最初は疲れるかもしれません。
でも、流れにさえ乗ってしまえば、案外とするするとなっちゃうものです。

流れに乗るのも自分、流れに逆らうのも自分、ただ、それだけなんです。
"変わりたい"と思ったのも自分、"変えない"と思ったのも自分。
どうせなら、変化が起ころうとしているのを、大事にしてみませんか。

フィギアスケートの中継を見て

最近、少しだけ生活スタイルが変わりまして、テレビを見る時間が増えました。
以前は、全くと言っていい程、テレビを見ない生活パターンでしたね。
で、フィギアの試合をテレビで見ていました。

見られていた方は、本当にビックリしたんではないでしょうか?
僕も他事をしながらテレビを見ていたんですが、思わずテレビに釘付けになってしまいました。
羽生選手と中国の選手が、試合前の公式練習で衝突してしまったんです。
激突といってもいいかもしれません。しばらくの間、起き上がることが出来ない羽生選手の状態が衝突の激しさを表していました。

テレビでも言っていましたが、公式練習の6分間の間に、希に今回のような選手同士の衝突はあるみたいですね。
ただ、今回のケースは今までと違っていたみたいです。

今までの選手は、試合を棄権していたそうです。
それはそうですよね、今から試合というのに、怪我をしたわけですから。
事実、羽生選手と衝突した中国の選手も、最初は棄権と出ていました。
それほど、フィギアスケートという競技は激しいスポーツなんでしょう。

ところが、再開された公式練習に、当の羽生選手が出てきたんです。
今までとは違うケースです。
もちろん、そんな激しい衝突の後ですので、それ相応の滑りしか出来ていませんでした。
でも、滑り終え、支えられながら、フラフラの状態で控え室に戻っていきました。
もちろん、試合に出るためにです。

試合が始まり、羽生選手の出番かと思いきや、棄権したはずの中国の選手がリンクに出てきました。
公式練習もせず、棄権と出ていたんですが、試合に出場するとのことです。
とても試合が出来る状態ではなかったんでしょうね、見ていて痛々しい状態でした。
今まで知らなかったんですが、回転技の着氷にかかる衝撃って、体重の三倍だそうです。
それは飛べるわけないですよね。
最初は棄権を受け入れ、直前の練習もしない状態で試合に出場したので、仕方ない結果だったのではないでしょうか。

羽生選手の演技が始まりました。
あんな衝突の後の演技です。
何回も転倒しましたが、鬼気迫る演技で、圧倒されました。
体ももちろん、精魂も使い果たした状態だったんでしょうね。
演技が終わった後、支えてもらってもまともに歩けない状態でした。

結果は二位でした。
あの状態であれだけの演技をするなんて、本当に凄いと素直に思いました。

さて、長くなっちゃいましたが、ここからが本題です。
今までと同じ事(衝突)が起こったのに、結果(出場)が違いました。
それだけではなく、それに相応しい結果(二位)もついてきました。
何が違ったんでしょう。

もちろん、人が違うから選択も違うというのは、至極当たり前です。
では、羽生選手と今までの選手とは、何が違っていたんでしょう。

おそらく、思考が違っていたのではないでしょうか。
その思考も、かなり強固な思考です。
強固な思考であるがゆえに、二位という相応しい結果もついてきました。
強固過ぎる思考といっても、ひょっとかしたら過言ではないかもしれません。
そうでなければ、今までと同じ棄権というケースになっていたと思います。
例え出場したとしても、その状況に相応しい結果になっていたでしょう。
中国の選手がそうであったように。

これは、どちらがいいか悪いかではありません。
どちらでもいいんです。
どちらでもいいんですが、ただ、強固な思考というのは、少なからず周りに影響力を与えます。
現に、賛否両論になっています。
ですが、それはあくまでも、周りの評価です。
本人にとっては、自分の目的の為に行動しただけなんです。
例え後悔する結果になったとしても、納得できているならそれでOKなんです。

願わくば、一日も早く怪我を直して、また素晴らしい演技を見せてもらいたいものです。

去らない嵐はない

今年は少しばかり例年と違い、異常気象が多いですね。
今月も二週に渡り、同じような進路で日本列島を台風が通過していきました。
各地に甚大な被害をもたらしながら、台風は去っていきます。
当たり前の事ですが、その場に留まったまま、そんな状態は続かないんです。
必ず、通過していくんです。

人間関係のトラブルもまた、ある意味、台風に似ているともいえます。
何も問題がない時は、穏やかな過ごしやすいいい天気です。
しかし、一旦問題だと思うと、穏やかな天気が大荒れな天気となります。
大荒れにふさわしく、感情も激しく揺れ動いています。
台風の発生です。
では、この台風は、一体どこで発生しているんでしょうか?

それは、自分自身の思考、感情から発生しているんです。

確かに、周りの環境もあるかもしれません。
例えば、誰々のせいで等々、言いたくなる時もありますよね。
でも、その誰々が元凶なら、周り全部被害を受けるはずなんです。
ないとは言いませんが、周り全部が被害を受ける状況というのはあまりないのではないでしょうか。
なら、周りとの温度差が発生する、それはどこで発生しているのでしょうか。
そうです、自分の中で、台風が発達しているんです。
自分の中でしか、台風は発生していないので、周りとの温度差に余計イライラしてしまうんです。

実は、誰々のせいで等々の後に、温度差の違いが出てくるんです。
自分自身の内面にちょっとだけ目を向けてください。
どう感じたのか、どうしてそう感じるのか、なんとなくですが、思い当たる事があるのではないでしょうか。
思い当たるなら、それが台風の発生源です。
例えば、誰々の~が許せなくて腹が立つ等々、色々あるとは思います。
誰々の~が、あなたは許せないんですが、周りは別に気に留めるほどの事ではない、ただそれだけなんです。
それは、温度差が出てしまいますよね。
そんな時は、今一度、自分の内面と向き合ってみてください。
温度差が発生した原因=台風の発生源である、あなた自身の思考です。
もう一度見直してみると、ちょっと偏りがあるのかもしれません。
偏りを修正してみると、台風は去っていきます。
当然ですよね、元々、その偏りが発生源だったわけです。
台風そのものを生み出していたのも、自分だったからです。

さて、それでは、誰々が本当に原因の時はどうなるんでしょう?
どれだけ強い勢力を持った台風も、やがて自然に消滅していきます。
同様、自然とまではいかないですが、改善がなければ、いずれ去っていくことになるでしょう。
冷静に、自分の立場を判断するのは難しいと思いますが、もし、その立場に自分が立ってる場合はどうしたらいいんでしょう?
その時は、必ず改善して欲しい要求をされているはずです。
今一度、その要求を冷静に見直してみてください。
改善さえすれば、問題はなくなるはずですから。

死と再生

ちょっと、大袈裟なタイトルをつけちゃいました。
ドキッとした方もいるかもしれませんよね。
"死と再生"というテーマは、元々は"イニシエーション(通過儀礼)"という意味があります。
"通過儀礼"というのは、例えば成人式、結婚式などがありますね。
儀式を通して、今までの自分が一度"死"を迎え、そして新たに"再生"されるんです。

成人式なら、今までの子供の自分が"死"を迎え、そして新たに大人として"再生"される。
結婚式なら、今までの息子(娘)が"死"を迎え、そして新たに夫(妻)として"再生"される。
つまり、個人としての自分は変わらないんですが、新たな立場に変わるという事です。

物事の解釈は、個人的に僕は自由だと考えています。
もちろん、転用も自由だと思います。
自分がいかに納得できるか、それだけだと思います。
そして、それが全てであり、始まりだと思います。

今までの自分と"決別"し、新たな自分として"再生"してみませんか?

一休み一休み

すっかり更新が遅くなってしまいました。
ちょっと個人的な事で、タイトルの通り、一休みが必要だったようです。
日々の生活は続いていくものですが、ひょんな事で落とし穴があるものです。
その落とし穴がどれだけのものなのか、落とし穴に落ちてみて、始めて気づきます。
そして、落ちた本人にしか本当のところは分かりません。
それにどう向き合っていくのか、向き合い続けることによってのみ、折り合いがつけれます。
折り合いをつけるのに、時間がかからなくても、とんでもない時間がかかっても、いいのではないでしょうか。
確かに、時間がかかればかかるほど、辛くて苦しい時間も長くなります。
向き合う事が辛くて苦しくて、逃げたくなります。
それだけ、問題は大きいんでしょう。
でも、解決しない問題はありません。
それは、解決の答えは、落ちた本人にしか出せないからです。
それがどんな答えであろうと、本人が納得できたなら、それは本人にとって正解なんでしょう。
もちろん、それだけではありません。
その後は、周りとの折り合いの調整という問題があります。
人は必ず誰かと関わりを持って生きています。
ですから、少なからず周りも影響を受けています。
周りの人も、その影響に対する答えは人それぞれです。
人それぞれですが、その答えもまた、その人にとっては正解なんです。
それを自分なりに折り合いをつけるのもまた、大変なことです。
ですが、自分の問題としっかり向き合って答えが出ているのなら、案外なんとかなるものです。
なんともならないのなら、自分の問題にしっかり向き合えてないのかもしれません。

まず第一に、自分と向き合う。
そして、それから周りと向き合う。

どれだけ時間がかかっても、解決しない問題はありません。
自分しか、正解は出せないですから・・・。

立ち止まる時、立ち止める時

週末に、新聞に乗ったある記事が気になりました。
どのような記事かは、あえて記載しませんが、その一部分だけ記載させてもらって、ちょっと考えてみたいと思います。

"集落の人に「殺していいか」と確認した上で、おりで捕まえて殺すことにした。"

起こしてしまった出来事は、なくすことはできません。
過去は変える事は出来ないからです。
ですから、何かしら決断して、行動に移す時は、事が大きければ大きいほど、自分一人では行動に移せません。
どうしても、迷いが生じるからです。
もちろん、事の大小は個人個人によって違います。
自分が決断できる範囲なら、迷うことなく行動に移せます。
自分が決断できる範囲以上ならどうするのか?
記載させてもらったように振る舞う事が多いです。
つまり、他人に相談した上で、"許可"をもらって行動に移すんです。
"許可"をもらって、と書きましたが、ここは一番食い違うとこだと思います。
つまり、水掛け論に発展する可能性が高いです。
事が大きいだけに、責任を負いたくないからです。
相談する方も、相談を受けた方も、お互いに、です。

では、どうしたらいいんでしょう?

まずは、立ち止まりましょう。
少なくとも、一人で行動に移せない事を、しようとしてるという自覚をもちましょう。
立ち止まる時、今がその時かもしれないと、今一度、よく考えてみましょう。
本当に、自分は自分自身の行動に責任が取れるのかどうか、冷静になってみましょう。
確認しなければ行動に移せないなら、尚更です。

それでは、周りの人はどうしたらいいんでしょう?

非常に見極めが難しいと思います。
自分の良心に従い、責任を持てるなら、"許可"をしてもいいんではないでしょうか。
ただし、巻き込まれるかもしれないという自覚も必要です。
自分が‘許可”をしたという”行為”に責任を持つ、自己責任を念頭に置いとかないといけないでしょうね。
そこまで責任をとれない、そんな時は、相手が自分で責任を取るように促しましょう。
自分の行動に、自分で責任を持つ、相手に自律を促します。
自分の良心に従い、どうしてもダメなら、その行動を立ち止めましょう。
それでも立ち止まらないなら、ここでもまた、自分で責任をとる、自律を促しましょう。

さて、立ち止まる時を見誤ると、どうなるのか?

行動はエスカレートするケースが多いと思います。
どうしてか、それはどこまでいっていいのか判断つかなくなっちゃうからだと思います。
なぜなら、既に、自分の判断基準を超えてしまっているからです。

この記事に関して記載させてもらった部分は、立ち止まる時だと僕が感じた部分です。
ですから、その後ももちろんあります。
その後の行動が問題になり、新聞記事になってしまったわけです。
確かに、語っている事は正しいのかもしれませんが、行っている行動とはかけ離れています。
行った行動を正当化できていない、なぜ正当化できないのか、その点を今一度、考えてもらいたいものです。

 

友達から誘われずに悩む

今回も中日新聞の ねえねえちょっと に掲載された相談について考えてみたいと思います。
今回の内容は、同じように悩まれてる方も多いんではないでしょうか?
今回もキーポイントだと僕が思う部分を色を変更しています。
そんな方も、参考にしていただければ幸いです。
それではどうぞ、お付きあい下さい。

今回の相談内容は、この方はいつも友達関係で悩まれているそうです。
友達はいますが、相手から誘われることはほとんどなく、この方が誘うか、幹事の順番が回ってくる程度だそうです。
誘われる人はいつも誘われ、自分には魅力がないのかと寂しくなるとのことです。
人見知りするタイプで、大勢いる飲み会などでは自分を見失う気がして、どう自分を出せばいいのかわからなくなり、そばにいる人ともろくに話せないとのことです。

なるほど、いつも悩まれてるのは、本当にお辛いですね。
相手から誘われることがほとんどないと、自分に魅力がないのかと寂しくなっちゃいますよね。
大勢いる飲み会では、どう自分を出せばいいのかわからず、そばにいる人ともろくに話せないのもまた、お辛いですね。
さて、それでは一体、どうしたらいいんでしょうね?

今回、誘われる人はいつも誘われ、を色を変更してみました。
どうしても、自分と他人って比較しちゃいますよね。
自分にないものを相手が持ってると考えちゃうと、自分に魅力がないのかと寂しく思っちゃいますよね。
身近な人にそんな人がいると、ひょっとかしたら、羨ましいと感じているのもあるのかなと僕は感じました。
相手から誘われることはほとんどなく、という部分に、相手から誘われたい、という思いも感じましたね。
それでは、そんな時はどうしたらいいのか?
羨ましかったら、まずはやってみる、なんです。
何をやってみるのか、それは、こうなりたいという相手のまねをしてみるんです。
多分、その人をよく観察してみると、自分とその人の違いが分かると思います。
自分には出来てなくて、その人には出来てることがあるのではないでしょうか?
その違いによって、結果が違ってるのではないでしょうかね。
この場合ですと、いつも誘われるか誘われないかの違いになるんでしょうね。
ですから、それをまねしてみるんです。
すると、自ずと誘われるようになるかもしれませんよ。

さて、それではもう一つの、大勢いる飲み会を考えてみましょうか。
 人見知りするタイプとの事ですが、確かにそうなのかもしれません。
ですが、自分で自分を決めてしまうと、そのまま変わりません。
なぜなら、自分を決めるのは、自分だけなんです。
自分の可能性を決めるのもまた、自分だけなんです。
人見知りだから、話すのが苦手と決めちゃうと、話せないになっちゃいます。
人見知りだけど、世間話ぐらいなら出来るかもしれない、これなら、世間話なら出来ますよね。
そばにいる人ともろくに話せないとの事ですが、簡単な世間話から話してみませんか。
大勢いる飲み会も、個人個人の集まりともいえます。
なら、基本はやはり個人との会話ではないんでしょうか。
例えは違うかもしれませんが、まずは木を見て、そして林を見、いずれは森を見る、そちらの方が建設的だと思いますよ。

義母へのお礼なく不満

今回も、中日新聞の ねえねえちょっと に掲載された相談を考えてみたいと思います。
僕がキーポイントだと思う部分を、今回も一部色を変更して記載しますので、読んでいただければ幸いです。
それでは、どうぞお付き合い下さい。

今回の相談内容は、この方のご主人が友人の母に駐車場を借りてお世話になっているので、お礼のお菓子を毎月と、お中元、お歳暮を届けているとのことです。
その友人は兄弟で義母に茶道を習いに来ているのですが、金銭はもちろん、何かを持ってきたことは一度もないとのことです。
義母は「好きで教えているのだからいいよ」といいますが、この方は釈然としない気持ちで、自分が細かいのでしょうか、との事です。

なるほど、こちらはお世話になってるお礼をしているのに、向こうもお世話になってるはずなのにお礼がないのは釈然としない、そんな思いをしているんですね。
これは、なかなか難しい問題だと思います。
こんな思いを経験された方も多いんではないでしょうか。
それでは、一体どうしたらいいんでしょうね。

まずは、自分と相手が全く別の考え方を持っていると考えたらいいのではないでしょうか。
毎月、お礼のお菓子を届けているのは本当に素晴らしい事だと思います。
でも、それはこの方が当たり前と思う事であって、他の人も当たり前と思う事だとは限りません。
この方の友人は、駐車場の契約で十分と考えているのかもしれません。
友人(の母)は駐車場を貸す、この方(のご主人)は駐車場代を払う、それで十分だと考えているのではないですかね。
もちろん、ここにも同じように、それは友人が当たり前と思う事であって、他の人も当たり前と思う事だとは限りません。
ですから、どううまく、自分の中で折り合いをつけるか、だと思います。
このままお礼を続けるか、続けないか、それもこの方次第だと思います。

さて、次に本題の、義母へのお礼なく不満、について考えてみたいと思います。
ここは本当に誰でもややこしくしちゃうとこだと、個人的に思います。
どうしてややこしくしちゃうのか、それは当事者と第三者を混同しちゃうからです。
この場合の当事者は、茶道を習う友人兄弟と、茶道を教える義母になります。
となると、当事者の義母は、今のままでいい、と言っているんです。
当事者間で了解済みなら、それ以上何もする事はないのではないでしょうか。
下手に第三者が関わっちゃうと、今までのバランスも崩れちゃうかもしれません。
かといって、釈然としない気持ちも残っちゃいますよね。
義母が気を使って言ってるのかもしれないし、本当にそう思って言っているのかもしれないですしね。
もし、確かめたいなら、友人にさりげなく聞いてみるのもいいかもしれません。
自分が紹介した手前、ちょっと心苦しいみたいな感じですかね。
ひょっとかしたら、なにかしらの回答が返ってくるかもしれませんよ。