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”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

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2013年

誰でも世界の中心は自分である

世界の中心は自分である、なんて聞くとどう感じますか?
物語の主人公になったような気分になりませんか?
ある意味、そうなんです。
物語には、ストーリーがあって、話しの展開上どうしても主人公視点になります。
では、登場人物は主人公だけでしょうか?
もちろん、違いますよね。他の魅力的な登場人物がいて、ストーリーを盛り上げますよね。
それだけではなく、ちょっとした脇役もいますよね。
一つの大きな目的を達成するために、登場人物は互いに協力して物語は進行していきます。

前ふりが長くなっちゃいました。
何が言いたいかというと、人は自分の視点でしか物事を見れないということなんです。
自分の価値観で世界を見るから、見たいように見てしまうんです。
厳しい人、優しい人、怖い人、面白い人、等々色々な人がいると思います。
でも、こんな経験はないですか?同じ人物なのに、人によって評価が違うって経験は?

それが世界を見たいように見てしまうことなんです。
納得できないなら、(自分にとって)と付けて下さい。
逆に、人からの評価が納得できない人は、(あなたにとって)と付けてみて下さい。
どうでしょう、しっくりきませんか?

人は、それぞれ個性があります。ですから、衝突する時はもちろんあります。
その時に、自分は自分が見たいように見ている、相手も相手が見たいように見ている、
だって、誰でも世界の中心は自分だもんなあって、頭の片隅にでも置いといてみて下さい。
悩みを解決するアイテムになるかもしれませんよ。

中には、自分は今まで人に合わせてきたから無個性ですよって人もいるかもしれません。
でも、それも無個性という個性ではないんでしょうか?
人に合わせてきたという世界の中心にいるわけですから。

最後に、前ふりの話しに戻りますが、一つの大きな目的を決めたのは誰なんでしょうか?
そうです、作者ですよね。作者の考えに沿って、登場人物は動くわけです。
ですから、物語って作り変える事もできますよね。視点を変えて物語を作るってのもありでしょうし。
世界の中心は自分ですから、その世界にもし違和感を感じることがあるなら、作り変える事も出来ます。
まずはやるかやらないか、その後に出来るか出来ないか、そうなるんではないでしょうかね。

 

 

ちょっと考えてみる大事

今回は、ちょっと気になったニュースを取り上げてみたいと思います。
どんな内容のニュースかというと、宅配便運転手が荷物を海に捨てたという内容です。
一体どうしてこんな事になってしまったんでしょう?
ちょっと僕なりに考えてみたいと思います。
ただ、最初に断っておきますが、あくまでも記事に書かれている"事実"で進めていくことをご了承下さい。

出来事は、誤った方面の荷物を間違えて積んでしまったとなります。
その時、会社に怒られるのを恐れているのが、頭に浮かんだわけです。怒られたくないとかですかね。
その結果、どういう行動にでたかというと、その荷物を海に捨てて処理したとなります。

なんでそんな事をしたんだろうって思いますよね。
でも、実はこの時点では、この人の目的は達成してるんですよ。
海に捨ててしまえば問題もなくなって、怒られることもなくなるから、恐れもなくなるわけです。
荷物を捨てた事が発覚しないかもしれないって思ってたのかのしれないですね。
もちろん、この時点ではですし、良い悪いは抜きです。

では、なにが足りなかったんでしょう?

それは、その後に起こる出来事を考えていないんですよね。ただ、それだけなんです。
荷物を捨てる事によるメリットとデメリットを考えていれば、大事にはならなかったんです。
荷物を捨てる事が発覚しないかもしれないのは本当なのかどうなのか。
会社に怒られるけど、自分が恐れている程のことなのかどうなのか。
その点も、本当かどうかちょっとだけ考えてみればよかったんですが。

最終的には、会社にも怒られましたし、さらに社会的にも怒られることになってしまったわけです。
事実が明るみになるまでのストレスもかなりのものだったんではないでしょうか?
今回この人は、苦しい思いをして、やってはいけない対処方法を学んだわけです。

なぜ今回取り上げたかというと、陥りやすい過ちなんではないのかなと個人的に感じて、考えてみました。
そんな事しないよって思うかもしれませんが、似たような事はないでしょうか?
自分にとって都合の悪いことを捨ててしまう、後回しにして忘れてしまうとか・・・。
人の事はよく分かるんですが、自分の事となると、けっこう分からないものです。
気になった時は、ちょっと考えてみるのもいいかもしれませんね。

 

道具を使う、道具に使われる

最近の技術の進歩は本当にすごいですよね。
どんどん便利になっていって、気を抜くと置いてきぼりになっちゃいますよね。
なんて書いている僕は今もガラケーですが・・・。
まあ言い訳をするなら、タブレットを持っているので必要ないかなって自分に言い聞かせています。
決して、置いてきぼりになってるわけでは、ありません。
なんて、ちょっと違うとこで熱くなっちゃいました。

では、気を取り直して・・・
最近のニュースを見ていると、果たして生活が便利になっているのかどうなのか少し疑問に感じます。

現代は間違いなく、ネット中心の世の中になったと思います。
使うと本当に便利ですから、なくなるなんて考えられないですよね。
僕も個人的にパソコンが壊れた時は、非常に苦労しました。
でも、所詮便利になったとはいえ、道具なんですよ。
道具とは、人が使うものだと思いませんか?

今、色々ニュースの記事を賑わせている内容を見ると、どうも道具を使っていないんではないかと感じます。
どういう事かというと、人が道具に使われているんではないのかなって感じずにはいられません。

道具を使うだと、使いこなすとか使いこなせないとかの問題だと思います。
もちろん、使いこなせないのも問題かもしれませんが・・・。
それは、使い方に慣れると問題は解決しますよね。
でも、道具に使われるだと、中心が人ではないので、人は振り回されてしまうんではないでしょうか。

もし、使われているかもって感じるなら、中心に戻りましょう。
道具とは、人が使うものです。自分にとって、本当に必要なこと、必要ではないこと、
道具を使うことで気にしていることは、本当にその通りなんでしょうか?
もし、その通りだとしても、他に方法はないんでしょうか?
実は周りみんなが道具に使われているってことは、ありませんか?

あなたは、道具を使っていますか、それとも、道具に使われていますか?

 

 

本当の自分って・・・。

本当の自分はこんなんじゃないって思う事ってありますか?
僕も学生時代はそんな事を思ってた事あったと思います。
そんな事を考えちゃうと、辛いですよね。なんだか分からないけど、イライラしてた気もします。
では、そう考える本当の自分ってどんな自分なんでしょう?

外面と内面で例えるなら、外面に出てないのが本当の自分って事になるんでしょうか。
内面が本当の自分ですから、外面は本当ではない自分って事になるんでしょうね。

なんだか、自分以外のなにかがいるように感じるのは僕だけでしょうか?

でも、ちょっと考えて下さい。
外面だろうと内面だろうと、どちらも自分ではないんでしょうか?
ちょっと分かりづらい表現かもしれませんね。
このように訂正してみたら、ちょっとは分かりやすくなるかもしれません。

”本当”という部分を”本音”に訂正したらどうですか?
本音の自分、本音ではない自分。

内面にあるのは、言いたいこと、やりたいこと、我慢してること、とかになるんではないでしょうか?

本当の自分を分かって欲しいではなく、自分の本音を分かって欲しい。

内に溜め込んだ本音をうまく外に出せれば、辛い気持ちとかイライラは解消するかもしれませんよ。

夏といえば・・・。

最近暑い日が続いていますよね。
こんな暑い夏の日の夜といえば、肝試しとか怪談話なんてあまりにも安易すぎますかね。
てなわけで、今回は、そっち関係の話にしてみようかなと思います。

以前、このこらむでも書きましたが、僕は残念ながら、霊感は全くないです。
残念ながらと書くぐらいですから、個人的には見たいって欲求は非常に強いですね。
その代り、不思議な体験は何度か経験しました。
その話を霊感がある当時の知り合いに話したら、うっそだあなんて言われちゃいましたが・・・。
霊感があって困ってる人には本当に申し訳ないです。
好奇心が旺盛な困った奴だなって思って頂ければ幸いです。

今までの知り合いにも、霊感がある人は何人かいました。
で、今回そのうちの一人とお盆休みを利用(?)して、少しだけ突っ込んだ話をしてみました。

その人が言うには、今思うときっかけは、専門学校時代の大阪城だったそうです。
友達数人と夜中の大阪城に行って、ある音を聞いて、非常に気持ち悪くなったそうです。
傍から見ても顔面蒼白というんですか、それまではそんな経験は一度もなかったと言っていました。
それからは霊は見えないんですが、気配があると左腕が痺れて冷たくなるようになったそうです。
あ、ちなみに僕のお気に入りの京都の護国神社はダメなようです。左手がいつも冷たくなっていましたね。

その人の話の中で面白いなって思った事が一つありました。
大阪城に行った後に、霊感が強い友達にある事を言われたそうです。
”なんか悪い霊を連れてきたんじゃないの”って・・・。

実は他の霊感がある知り合いも、当時同じような事を話していました。
その知り合いは中学時代から霊を見るようになったそうですが、大学に入ってもっと霊感が強い友達が出来たそうです。
それから、その知り合いは、飛躍的って表現がいいのかどうか分かりませんが、格段に霊感が強くなったって話していました。心霊体験の話しも本当にリアルでしたね。

どうなんでしょう、共通して僕が感じた事は、理解者が現れると良いか悪いかはともかく人の能力って伸びるのかなって感じました。ただ、その二人ともあまり伸びて欲しくなかったみたいでしたが・・・。

では、理解者が現れなかったら、どうなっていたんでしょうか?
どうなっていたんでしょうかね、見えなくなっていた可能性もあったのかもしれませんね。
ただ、見えてるものを誰にも信じてもらえないってつらいですよね。

最後に以前猫を飼っていたんですが、時々なにか目で追っていたんですよね。
で、いつも最後は尻尾がぼんっておっきくなったんですよ。
あれはなにを追っていたんですかね。

自意識"過剰"の意味

最近、自意識過剰って言葉を聞く機会が個人的に多い気がします。
実は今回、テーマとして決めた時に、僕の中でもふっと思い出したエピソードがあります。

思春期真っ只中に、"自意識過剰なんじゃない"ってクラスメートに言われた事がありました。
いつの頃とか詳しくは書かないですが、けっこう鮮明に思い出しました。
いやあ、当時けっこう嫌な気分になりましたねえ。
なんでお前に言われないかんのやって・・・。
それから、どうしたかというと、話しかけられてもその人を意識的に避けるようになりました。
ホント、思春期真っ只中、若いですよねえ、我ながら・・・。

今思えば、そんな時期だったんだろうなって思えます。
でもその当時は、自分でも嫌になるぐらい周りを意識していました。
まさに分かってるのに、止められない状態ですね。

自分が思う以上に他人は気にしていないって分かってるんですよね。
言われるまでもなく・・・。
でも、どうしても気になってしまう。
どうしてなんでしょう?

それは、言葉通り、自分の意識に過剰に反応するからなんです。
つまり、自分が気にしている事、欠点とかになると考えられます。
人によっては、欠点に思えないよなあって事柄があるかもしれません。
でも、実はさらに深く追求してみると、欠点を隠す為にその事柄が表に出てる事が多いです。
人間の心理って、ホント凄いですよね。うまく隠しちゃうんですよ、自分でも気づかないのに。
知れば知るほど、心理の複雑さ、その深さに興味が尽きません。

では、どうすればいいんでしょう?

それは問題が絞られたので、これから自分がどうしたいか考えてみるのがいいのではないでしょうか。

”自分はどうしたい?どうなりたいんだろう?”

それだけでも、大分違ってくると思いますよ。

困った口癖

みなさん、口癖ってありますか?
僕は、けっこうあるみたいで、よく知り合いに指摘されます。
指摘されて、初めて気づくんですよね。
いやあ本当、自分では気づかないもんですよね。

で、指摘されるぐらいですから、相手にとっては非常に嫌な気分になるみたいです。
本当、気づかずに相手を嫌な気分にしてしまうって困ったことですよね。
なんて他人事みたいに書いてますが・・・。

指摘されたのを聞いた時、確かにそうだよなあって、素直に直そうって思ったんですよ。
でも、これがなかなか直らないんですよね。
指摘されて、意識するようになって、言う頻度は減ったんですが、話しに調子が出てくると出ちゃうんですよね。
癖ってのは、直そうと思うとなかなか手強いですよね。困ったもんです。

なんて手強いなんて言っててもしょうがないし、テーマで取り上げたので、今回じっくり考えてみたいと思います。

今の問題としては、意識してるときは言わなくなったけど、調子よくなると出ちゃうって点ですね。
ということは、言い換えると無意識に言ってしまうってことになりますかね。

なるほど、確かにこれでは、今まで口癖直らないのも仕方ないですね。
問題点をしっかり絞ってなかったので、対策が不十分だったみたいです。
僕自身の信念を検証してみて、当てはまる信念を特定してみました。
その信念を特定するときに、その信念が形成されたであろう場面も浮かんできました。

ある問題にじっくり取り組んでみると、関連した出来事がぱっと出てくるんです。
でも、大事なのは、その時に誤った信念として、自分自身で選択したことをまずは認めることです。
僕も間違いなく、誤った信念として選択してました。
あとは、自分で選択したことなので、自分で新しい信念を選択するだけです。

とまあ、自己洞察としては、このような流れになりますか。
あとは、普段の生活の中で、実際に試してみてどうだったか検証することになりますかね。
近々、実際に検証する場面があると思いますので、続きはその時にでも書きたいと思います。

祇園祭にて

今年も行ってきました、京都の祇園祭。
といっても、実は去年が初めてだったんですよね。
やはり、めっちゃ混むって分かってるとこには行きたくないってのが避けてた理由ですかね、やはり。
なんせ、日本三大祭りの一つですもんねえ。
で、去年はちょうど週末に日程が当たったから、まあ行ってみようかと。
毎年7月14日~16日が宵山、17日が山鉾巡行という日程になっています。

で、去年初めて見た感想は、ほんと一言、スゴいって一言に表されます。
今まで見に行ってなかったのがめっちゃもったいなかったです、素直に悔しいですね。
完全に四条烏丸河原町までの一区画を18時頃から23時まで封鎖だけでもスゴいですからね。
地元の人間ではなく、普段の四条烏丸を見てる人は、これだけでも感動します。

今年は急遽決めたので、京都に着いたのが19時頃、そこから21時まで見て回りました。
帰宅したのは、夜中の1時でしたね。
知り合いには、マジってびっくりされましたが、僕の中では、それだけの価値がありますね。
でも、確かにそれだけの価値あるんですが、それだけなのか、自分自身考えてみました。

京都滞在時間は、ざっと夕食の時間も含めて4時間ぐらいですか。
片道2時間、あらためて考えてみると、移動だけで滞在時間と同じ時間使ってるんですよね。
客観的に考えてみると、これは確かにマジでって思っちゃいますよね、我ながら。
でも、それだけのデメリットを上回るメリットが大きいんですよね。

人は、思考があって、行動を起こします。僕の場合は、迷うことなく、見たいって欲求に忠実なんでしょうね。
逆に言うなれば、行動に迷いがあるのは、思考がはっきりしていないとも言い換えれます。
ただ、物事には、良いも悪いもないと思います。決めるのは、他の誰でもない、自分自身です。
もし、問題になってきたと自分で感じたら、なりたいように自分で試行錯誤してみればいいと思います。
決めるのは自分ですからね。

あ、あと以前経験しているかどうかも、行動に影響を与えるかもしれませんね。
僕の場合ですが、学生時代に京都滞在30分ってのがありました。
いやあ、ムチャしたもんですよねえ・・・。

答えを知りたい欲求について

以前、教えたいという欲求について考えてみました。
今回はそれに対する、答えを知りたいという欲求について考えてみたいと思います。

では、一体どういう時に答えが知りたいと思うんでしょう?

悩んでいる時、もちろんですよね。答え知りたくなりますよね。
どうしたらいいのか分からないのは、本当に苦しいですよね。
あー 答えがあったら楽になれるんだろうなぁって考えますよね。

では、答えがあったら、本当に楽になれるんでしょうか?

こう考えることはできないでしょうか?本当は答えが分かっているから、悩んでいると。

えっ、どう言う事?と思うかもしれませんが、では、なぜ、悩むんでしょう?
できないからに決まってるじゃない、と聞こえてきそうですね。
何に対してできないんでしょう。あなた自身が持ってる答えに対してできないんですよね。

そうなんです、答えを知りたいわけではないんです。多分理想としての答えは持ってるんですよ。
ただ、それが出来ないんですよ。ですから、こうなりたい理想の自分自身をまずは想像してみるんです。
何が出来たらいいんだろうって考えてみるんです。
それが考えられるなら、問題は自分自身で解決できる可能性は高いんじゃないでしょうか?

では、それができないときは?

違う問題点があるんでしょうね、自分自身では気づきにくい問題点が・・・。
ただ、漠然としてたことが具体的になるだけでも、かなり進歩ではないんでしょうか?
一歩とはいいませんが、半歩だけでも踏み込んでみませんか?

心の強弱?

時々、心を強くしたい、メンタル面を強くしたいって話しを聞きます。
強くなれば悩むことなんてなくなるってことみたいです。
傷つけられたくないって気持ちもあるみたいですね。
確かに傷つくのって怖いですよね。出来ればそんな状況を避けたいですよね。
では、心が強ければ悩むことも傷つくことも避けられるんでしょうか?
ちょっと考えてみたいと思います。

強くするってことは、鍛えるってことになるんでしょうか?
てことは、鍛えられる環境にいなければできないですよね。
では、心が鍛えられる環境ってのはどんな環境なんでしょう?
なんか、僕の想像力が片寄ってるのかもしれませんが、非常につらい状況にいるように想像しちゃいますね。
では、心が強い人は、そんな環境をどうやって手に入れたんでしょうか?
なんか施設とかって話しは、個人的に苦手なので、ちょっとスルーさせてもらいます。
それ以外で考えると、あえて自分からそんな環境を作り出してる可能性がありそうですね。
案外気づかないことが多いんですが、状況って自ら作り出してることって意外と多いんです。

なんか非常に抽象的な話しになってきました。
もともと心って概念自体が抽象的だから仕方ないのかもしれません。
なんとなくですが、鍛えるってのは、イコールではないですが、慣れるに近いような気がしてきました。

どうなんでしょう、心が強い=打たれ強いでいいんでしょうか?
場数を踏んで、状況に慣れて、冷静に対処するってことになるんでしょうかね。
どうも個人的に根性論には懐疑的な意見をもってますんで、釈然としないですが・・・。

では、打たれ強い人は悩むことはないんでしょうか?
確かに危険回避能力は高いのかもしれませんねえ。
勝手に問題を解釈して、勝手に理解して、新たな問題を作っちゃう可能性の方が多いような気がしますが・・・。

同じ問題は存在しないと考えて、客観的に冷静に見極めて対処するって事が理想になるんでしょうか?
そんな人ってすごいですよね、素直にそう思います。ただ、近寄りづらいですよね、多分。

どうですか、結論として、今、悩んでることに真剣に向き合ってみる事が大事なんじゃないでしょうか?
とことん向き合ってみて、自分なりの答えを出すのが一番いいような気がします。
時間はかかるかもしれません、かからないかもしれません。
非常につらいかもしれません、つらくないかもしれません。
あくまでも、納得させるのは自分自身です。
自分自身を納得させるまで考えてみませんか?