free mental place 航

”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

愛知県一宮市今伊勢町新神戸
郷浦11-1明和ハイツ203号
                  TEL.0586-43-0848

自分自身

余計な事をしない

この前の事なんですが、ある人と何気ない会話の中で、その人に聞かされた言葉があります。

“余計な事をしない”

その人はよかれと思ってある行為をしたんですが、それが相手には余計な行為だったみたいでトラブルになってしまったそうです。
その人はいい事をしたと思っていたので、人の好意を踏みにじるひどい相手だと憤っていた、とのことです。
でも、トラブルになってしまったのは事実です。
トラブルになってしまった以上、解決するしかありません。
そして、上司に言われたそうです。

“余計な事をしない”

よかれと思った好意はあくまでも自分の考えです。
相手が望んだものではありません。
なら、自分の好意は相手にとって余計な事だったわけです。
余計な事さえしなければ、トラブルにならなかった、というわけです。

それはこの人にとって、ストンと落ちた言葉だったんでしょう。
それからはこの言葉に従って行動して、この人なりに他人との付き合い方が上手くいくようになったみたいです。

こんな経験ってかなり多いんじゃないでしょうか。

余計な事をしてしまうから、問題がこじれてしまう。
余計な心配をするから、相手に苛立ってしまう。
余計な気遣いをするから、何も出来なくなって勝手にイライラしてしまう。
余計な事を考えて、今まで築き上げた関係をダメにしてしまう。
余計な手伝いをして、相手の成長を妨げてしまう。

しかし、このような問題が解決する時は、拍子抜けするぐらいアッサリ解決します。
どうしてなのか?
それは、勝手に自分が問題視してるだけだからなんです。
実際、起きてる事実としての事柄は変わらないんです。
あ、これは余計なんだと気づいた時、今までのわだかまりが驚くぐらいなくなっちゃいます。
数年、もしくは数十年のわだかまりが、です。

言葉とは力を持っています。
いい方向に働けばいいのですが、悪い方向に働いてしまう呪縛にもなってしまいます。

新しいものを手に入れた時って無性に使いたくなっちゃいませんか?
僕はしょっちゅうあります。
飽きるまで使って、やっと適度な距離感が分かります。

最初は呪縛でも、仕方ありません。
距離感を図りかねているんです。
これはこうだからと、言い訳するようになったらちょっと危険なサインです。
自分に言い訳しなければならない事は、到底他人も納得できない事が多いです。

調味料を入れて、自分好みの料理の味付けをします。
その味は、自分好みの味でしかありません。
その味付けを他人に押し付ける人ってそれほどいないんではないでしょうか。
さりげなく、脇に調味料を置いておく、そんなスタンスっていいですよね。

クラクション(スキル)の使い方

以前ある知り合いに聞いたんですが、その人は車のクラクションを鳴らさないそうです。
鳴らされた相手が嫌な気持ちになるからとの事でした。
当時はなるほどねぇと聞いていたんですが、そうかもしれないし、違うかもしれないんですよね。
確かに相手が嫌な気持ちになるかもしれませんが、それはこちらには分からない事なんです。
なるかもしれないし、ならないかもしれない、感じるのは相手の自由なんです。

嫌な気持ちになったのは、以前自分が鳴らされた時の事なんです。
自分が嫌な気持ちになったから人にはそんな気持ちをさせたくない、だから自分は鳴らさない、そんな思考の流れだったんでしょうね。

でも、いずれ葛藤が生じるんです。

誰でもなんですが、信号待ちでぼーっとする時ってありますよね。
その人の前にたまたま青信号なのに動かない車があったとしたら、その人は一体どうするんでしょう。

そのまま待つんでしょうか?
それともクラクションを鳴らしてみて、新たなクラクションの可能性を手に入れるんでしょうか?

なんてちょっと大袈裟に感じるかもしれませんが、なにげなく過ぎていく日常の中にこそ、ちょっとしたつまずきがあるんです。
その時こそ、つまずいた内容を見直すチャンスです。
つまずかせているのは、他でもない、自分自身の思考なんです。

見直せるのは自分しかいません。
自分にとって、もっとより良い方法で日常生活を送ってみませんか?

なんて、通勤途中にクラクションを鳴らされてちょっと考えてみました。
ちなみに僕は嫌な気持ちにはなりませんでしたね。

事故の衝撃

個人的な事ですが、昨日、仕事帰りに交通事故にあいました。
車で信号待ちをしている時に、後ろからの追突です。
いやあ、本当に頭にくるものですね、こちらに全く非がない時というのは。
完全に相手の前方不注意、10対0の被害者と加害者の関係の出来上がりです。

感情というものは、自然と湧き上がってくるものです。
今回は一方的に車をぶつけられたという怒りの感情が出てきました。
なんて、後でこうやって書いていますから怒りという一言で表せますが、
ようは、その場で感じた事を、そのまま出すという事が大事という事です。
湧き出てきたものをそのまま出すと、自然と収まるものです。

ここで面白いのは、湧き出てきたものをそのまま出すという事は、
自分にとって良い事も悪い事も全てという事です。
良い事か悪い事かというのは既に思考で判断してしまっているので、
湧き上がってきた感情とはちょっと違っています。
自分にとって悪い事を認めるというのは、なかなか出来る事ではありませんが、
それが出来ると出来ないとでは結果がかなり違ってきます。
自然と収まる人、自然と収まらない人、
つまり、一例で例えるなら、
愚痴になるかならないか、なんていえるかもしれませんね。

ちょっと脇道にそれてしまいましたが、
被害者である僕は怒り、
加害者である相手は、自分のしでかしてしまった事を謝罪する。
それで自然と終わりになるものなんです。
もし、自然と終わらないなら、余計な事をしてしまっているんです。
もちろん、あくまでも湧き上がってきた感情の処理の話しです。
ですが、この処理が出来ると出来ないとでは、
問題がこじれるかこじれないかを大きく左右します。

感情の処理が済んだら、後は事故そのものの処理です。
これは事務手続きみたいなものです。
交通事故という事実があり、その事実を法律に照らし合わせて処理する。
客観的であり、主観が入り込む余地がないから、その事実が自然と収まるところに収まる。
収まらないということは、余計なことをしているんです。

なんて、ちょっと解説っぽく書いてみましたが、
何も問題が起こらない時はスムーズに物事が進むものです。
自然と収まるところに流れていくものなんです。
ですから、今回の交通事故の処理はスムーズに流れていきました。
スムーズに流れていき、それで終わりです。

収まるところに収まらないのは、余計な事をしてしまっているんです。
なんでいつも問題がこじれるんだろうではなく、
自ら余計な事をして、問題をこじらせてしまっていると考えてみると、
問題点がはっきりして、ちゃんとした処理が出来るものです。
流れに逆らわず、収めてみませんか?

吐き出すという行為

愚痴というのは集団生活を送る上で必ず出てくるものだと思います。
どこかで妥協しなければ上手く周りと付き合っていけない事も多々あるからです。
今まで愚痴なんて言ったことないなんて人はいないんではないでしょうか?
もし、言ったことがないなんて人がいるなら、すぐにでも愚痴を吐き出してください。
愚痴を言う事は悪いことではありません。
むしろ、言わずに溜め込んで余計こじらせた方が後々面倒なことになります。

猫を飼われてる方はよくご存知だと思いますが、猫って毛玉を吐き出します。
毛玉とは、身繕いで身体を舐めた時に飲み込んでしまう自分の毛が固まったものです。
猫は自分の毛を消化する事ができません。
ですから、無理矢理吐き出すしかないんです。
毛玉を吐き出した後は、スッキリしています。
果たして、猫は身繕いを止める事が出来るんでしょうか?
猫として生まれてきた以上、身繕いをする行為が本能でしょうから止めるのは無理でしょうね。

猫って自分が吐き出した毛玉を掃除してくれるでしょうか?
そんな猫がいたら、それはそれで怖いですよね。
毛玉を吐き出すのは猫、それを掃除するのは飼い主、別々の役割なんですよね。
猫って時々甘えてくる時がありますが、ひょっとかしたら感謝を表してるのかもしれません。

愚痴、暴言、罵詈雑言、等々自分が吐き出すものは、自分の中で消化できないものです。
消化できない以上、猫の毛玉のように吐き出すしかないんです。
吐き出す人、それを聞いてくれる人、別々の役割なんです。
吐き出してスッキリしたら、それで終わりではなく、
聞いてくれた人には感謝を、聞かせた人には後でしっかりフォローをすると、
周りとの関係もそれほど悪い感じにはならないかもしれません。
何事もやりっぱなしが一番問題になりますからね。
それに、吐いた事に罪悪感を感じる自分のフォローになるかもしれません。

なんて事を、
コーヒーをおもっきしこぼしちゃって、
暴言吐きながら床掃除してる時に考えていました。
ホント暴言って出ちゃうものですよね。

本当の解決とは

社会生活を送る上で、立場というのはついてまわるものです。
自分に立場があるように、相手にも立場があります。
立場違えば、ではないですが、不満もまた生まれてくるものです。
不満というのはなくならないものなんでしょうか?

そんな事はありません。
ですが、なかなか難しいものだと思います。
難しくしているのは、一方的な解決を目指しているからです。
自分の不満解決だけを押し通そうとするからです。
それでは問題は解決しません。
相手にもまた、相手の立場があり、不満があるんです。
一方的でない解決を目指すなら、時間はかかるかもしれませんが不満はなくなると思います。
つまり、話し合いでお互いの妥協点を見出すわけです。
先に結論を書きますが、話し合いなくして本当の解決はないと個人的には思っています。
歩み寄り、譲り合い、社会生活を送る上で必要なものではないでしょうか。
それが出来ない時に、衝突が起こります。
衝突が起こり、不和が起こり、お互いに理解出来ないとなり、最終的には関係の解消になります。
関係の解消には~のせいと、相手に問題があったと結論づけてしまいます。
これもまた、一方的な解決です。

見えない衝突というのもあります。
一方的妥協です。

こちらはちょっと厄介です。
どう厄介かというと、周りから見ると何も問題もなく、不満もないように見えるからです。
そう見えるように一方的に妥協しているんです。
周りに迷惑をかけてはいけない、わがままを言わない、いい子でなければならない、自分が悪い。
自分より、周りを大事にしようとします。
周りからは優等生とかいい人とか、いいイメージであろうとします。
そんな自分でいいと思っていました。
ですが、こちらもまた、一方的な解決です。
ですから、いずれ衝突が表面化します。
表面化した時にはかなり難しい問題だと自分で感じてしまいます。

全く違う問題解決になるように思うかもしれませんが、違います。
同じなんです。
どちらも一方的解決を目指しているんです。
ですから問題は解決しません。
一方的妥協の方は分かりづらいかもしれません。
こちらは解決しなければならない関係が少なくとも二つあるからです。
それが問題を難しくしているんです。

今まで我慢してきたのは~のせいだ、
今までずーっと我慢してきたからもう我慢したくない。
確かにそう思うのも仕方ないかもしれません。
よく今まで我慢してきたと思います。
ですが、だからこそ、歩み寄り、譲り合いが必要なんです。
表面化した今だからこそ、話し合いでお互いの妥協点を見つけられるんです。
そんな事したくない、そう思うのも仕方ないかもしれません。
仕方ないですが、そう思っていたからこそ、問題は解決しなかったのかもしれません。
本当の解決を目指して取り組んでみませんか。

2009年1月7日(水)?

6年前の自分ってどうでしたか?
僕も知り合いに指摘されて知ったんですが、今年は6年前の2009年と同じ暦なんですよ。
皆さん気づいていました?

6年もあると、環境の変化も色々あるのではないでしょうか。
いい変化もあれば、悪い変化もあるかもしれません。
なら、次は同じ暦が来るときにいい変化があるように少しだけ頑張ってみましょうか。
次の同じ暦はというと・・・。
うわあ、2026年ですねえ。
6年後ではなく、11年後になっちゃうんですね。
11年後には、今の自分よりマシな自分になれるようにしてみませんか。
今はダメでも、長いスパンでみればできる事もありますよ。

なんて考えながら顔洗った時に鏡見たら、白髪が増えてました・・・。
歳はとりたくないですが、こればっかりは仕方ないものですね。

日頃から会う人は大事、たまに会う人はもっと大事

四年に一度の頻度で行われる中学時代のクラス会に参加しています。
中学を卒業してから十年後にクラス会を開き、それから四年毎に開かれ、今年がその年でした。

クラス会って、続いていますか?
ちなみに続いているクラス会って、僕の場合はこの中学時代のクラス会だけです。
それ以外は一回だけで終わってしまっています。
もし、続いているクラス会があるなら、是非参加してみて下さい。
ひょっとかすると、非常に貴重な体験が出来るかもしれません。
僕も今回もですが、貴重な気づきを得る機会に恵まれました。

どんな貴重な体験をしたかというと、八年前の自分と出会う事ができたんです。
といっても、厳密にいうと、すっかり忘れていた八年前の自分を思い出させてもらった、となりますね。

前回、参加できなかったクラスメートが、八年ぶりに参加して、八年前と僕が全然違うと指摘してくれたんです。
四年前に参加した時は、本格的にカウンセラーの資格を取る為に学校に通い出す頃でした。
さらにその四年前となると、確かにプライベートでもゴタゴタがあって、けっこう悩んでいた事がありました。
四年ぶりにクラスメートに会うわけですから、近況報告も兼ねて、普段から会う友人達と違って色々話すわけです。
ですから、当時けっこう詳しく話したんでしょうね。
ですが、八年の年月は僕にとっては悩みの解決のスパンとしては長すぎるんでしょうね。
”そんな事あったっけ”って感じで、すっかり忘れてしまっていました。

不思議に思うかもしれませんが、悩みが解決する時って、大抵こんなものです。
悩んでいる時も時間は流れているのですが、自分の中の時間は止まってしまっているんです。
ですから、ずーっと同じ問題が続いていってしまうんです。
もう少し補足すると、ずーっと同じ問題を続けていこうとするんです。
ですが、その問題をしっかりと自分の中で消化して解決すると、自分の中で止まっていた時間も同時に動き出します。
自分で止めていた時間を動かすようになるんです。
時間が流れると、周りの環境の変化にも柔軟に対応できます。
物事が変化していくんです。
少しずつの変化ですが、時間と共に積み重なり、いずれ大きな変化になります。
変化の渦中にいる本人は、あまり意識しません。
意識する必要性がないからです。
そして、周りと合わせられる日常が積み重なっていきます。
今まで出来なかった事が、当たり前の日常となっていくんです。

では、たまにしか会わない人にしてみるとどう感じるんでしょうか?
その人にとっては、当時会った時の印象しかありません。
そこから変化しようがないんです。
つまり、今回のケースでいくと、八年前で止まってしまっているんです。
僕が言うのもなんですが、それは確かに劇的な変化に感じるんでしょうね。
八年前との違いを指摘したくなっちゃうわけです。

もちろん、いい変化もあれば、悪い変化もあります。
どちらも、たまに会う人の方が気づくものです。
自分を見直すきっかけになるかもしれませんよ。

会話をして下さい

今回のコラムは、個人的なメッセージとして書かしてもらいます。

会話をする、コミュニケーションを取るという重要性というのは、当たり前だと思いますよね。
社会生活を送る上で、そんなの当たり前だよと思う時は、全く問題ない時です。
そんな時は、何も問題も負担もなく、愚痴とか不満を知ってか知らずか話しているものなんです。
それか、自分自身で問題を解決できている時なんです。
セルフケアというのが理想的ですからね。
自然治癒と言い換えてもいいかもしれません。
そんなスキルというのは、誰もが知らずに身につけているものなんです。

相手に気を使う、相手に対して話すと申し訳ないと思ってしまう、相手に負担を掛けたくない、心配させたくない、そんな時にこそ、そう自分が思える相手と会話をして下さい。
自分がどれだけ辛い思いをしているのか、自分だけで抱えこまないで下さい。
そう思う今の状況は、今のあなたの自然治癒能力をオーバーしているのかもしれません。
オーバーしてるゆえに、そんな自分を守るべき相手に見せたくないと思ってしまうものなんです。

とは言っても、自分の弱い部分を見せるというのは難しいものだと思います。
自分が守らなければならないと思っている相手なら尚更です。

難しいんですが、隠される方が相手にとっては負担に思う事も多々あります。
同じ生活を送っているなら、ほんのちょっとの生活のパターンの違いも気付くものではないでしょうか。
あれ、ちょっとおかしいなって思う時はあるものです。
いつもと違うぞ、気付くんですが、相手もまた、気を使って話さないんです。
指摘したら悪いなあなんて思ってしまのかもしれません。

これって、十分相手に負担を掛けてますよね。
少なくとも、守るべき相手に気を使わしてしまっているんです。

どうせ負担を掛けるなら、オープンにして負担を分かち合うようにしませんか?
あなたが守らなければならないと思える相手なら、その思いは通じるのではないでしょうか。
なぜなら、あなた自身が選んだ相手です。
なら、答えてくれるのではないでしょうか。
あなた一人では今の状況を解決するのは難しいかもしれません。
今までの問題を解決してきたスキルでは太刀打ちできない状況かもしれませんが、協力しあえば乗り越える事ができるかもしれません。

そういえばあの時、後で思い返すセリフ程、辛い思いをさせるものはありません。
辛い思いをさせたいんでしょうか?

辛い思いをさせたくないからこそ、自分が頑張るしかない、
それが全う出来るなら、全く問題はないです。
出来ない時こそ、出来なくなりそうだと思う時こそ、
会話をしてみて下さい。
最初のとっかかりだけが問題なんです。
とっかかりさえ乗り切れば、思いを吐き出せるはずです。

たった一歩なんですが、とてつもない一歩かもしれません。
踏み出しましょう、一歩を。
後は自然と流れていくものです。

なんて、偉そうにコラム書いてますが、
商売道具の名刺入れを飲み屋に忘れてきてしまいました。
僕もまた、反省しなければならないですね・・・。

 

 

世の中は"期待"にあふれている

個人的な事なんですが、最近ある出来事を知らされ、その内容に思わずがっかりしてしまいました。
どのような内容かは省かさせてもらいますが、僕にとっては残念に感じた出来事でしたね。

事実としての出来事は一つだけなんですが、個人個人によってその出来事の捉え方は違ってきます。
僕にとっては、その出来事に対してがっかり感が多きかったわけです。
どうしてがっかり感を感じたのか、それはそんな事はしないだろうという勝手な期待を相手にしていたんですね。
その期待を裏切られたように感じて、がっかりしちゃったわけです。
相手にとっては、自分の知らない所で勝手に期待されても、そんなの知らないよって言いたくなりますよね。
ちなみに、その場で僕と同じようにその出来事を聞いた人達もまた、それぞれ違った捉え方をしていました。

大事なのは、出来事に対してどう自分が感じようが、それはあくまでも自分個人の問題なんだと自覚する事です。
そして、自分が感じた事を相手に伝えるかどうかもまた、自分で選択できるということです。
伝えるのがいいのか、伝えないのがいいのか、自由に決めていいんです。
ちなみに今回の僕の選択は、相手に伝えない事を選びました。
なぜなら、自分の勝手な期待と気づいたからですね。
そして、その選択に対して、全く違和感を感じなかったからです。
もし、その自分の決定に違和感を感じるようなら、もう一度考えてみた方がいいかもしれません。
その違和感が"しこり"として自分の中に残ってしまうかもしれないからです。
"しこり"というのはやっかいなもので、相手との関係も変わってしまう事にもなりかねません。
それも一方的にですから、相手にとってはたまったものではありませんよね。

相手に対して怒るというのもまた、一因として期待を裏切られたという思いがあります。
怒って相手に伝え、自分の期待に沿うようにするんですね。
でも、怒るという感情は強い感情ですので、制御が効かなくなってしまう事があります。
あちゃあ、言い過ぎたなあと後で後悔してしまうんですね。
そして感情を出しすぎた分、不自然な程、まるで取り繕うような行動に出てしまいます。
優しくなりすぎたり、しゃべりすぎたり自分なりにバランスを取ろうとするんです。
周りに同意を求めたり、自分の怒りを正当化しようとしたりもします。
自分ではバランスを取ってるつもりですが、そんな時は大抵、アンバランスに周りは感じます。
言い過ぎたなと自分が感じたなら、感じた通りに素直に相手に謝るのが一番です。
言い訳をするなって、相手に言いたくなる時ってありますよね。
それと同じです。
自分に対して言い訳をしちゃってるんです。

事態が一向に改善されないなって思ってるなら、そんな時は相手に対する評価を見直すいい機会かもしれません。
過小評価しているのか、過大評価しているのか、相手の評価を決めるのもまた、他の誰でもない自分です。
過大な期待というのは、どちらにとってもあまりいい結果にならない事が多いです。
お互いが被害者と思ってしまうんですね。
世の中は"期待"にあふれています。
自分が出来る事、出来ない事、
相手が出来る事、出来ない事、
見極めるのもまた、自分だけです。

"変わりたい"

"こんな自分は嫌だ"
"変わりたい"
この仕事をするようになって、本当によく聞く言葉だと、改めて思います。
そのように思う事って、誰でも一度はあるか、あったんではないでしょうか?

ふと、自分に当てはめて考えてみると、僕にもはっきりと思い当たる出来事はありますね。
高校までの自分が思う自分って、けっこう人見知りで、言いたい事も言えない自分だったと思います。
自分で言うのなんですが、シャイボーイってんですかね。
それが大学に入って、結構の頻度でバイトに入るようになって、学校以外の人と知り合う機会が一気に広がりました。
そのバイト先の先輩で、人見知りとは無縁に見える先輩がいました。

"羨ましい"
"こんな風になりたい"
"あ、ここまで言っても大丈夫なんだ"

そう思った事を思い出します。
当時、その人のように振る舞ってみようと考え、行動を真似してみました。

結果、どうなったかというと、自分的には積極的になったと思います。
真似した当初はやり過ぎかなって自分でも思うぐらいの行動でした。
厚かましいってんですかね。
でも、時間が経つにつれ、上手くバランスが取れたと思います。

何かが変わる時には、足りなかった分だけ、反対方向に向いてしまうものだと思います。
今までの反動なのかもしれませんね。
しかし、それも最初だけです。
最初だけ乗りきれば、自ずとバランスを自分なりに取るものです。
折り合い地点を見極める、そんな感じですね。

さて、それでは今現在の自分はどうかなと、改めて考えてみると、更に変わっていると思います。
自分にとって、まずはそれを第一に考えて行動していますね。
もし、また不都合が出てくるようなら、変えるでしょう。
今のところ、その必要性はないですけどね。

ちょっと長くなってしまいましたが、"変わりたい"という思いには必ず比較対象があります。
僕の場合だと、知り合った先輩になりますね。
何かと比べるから、今の自分に満足できなくなってしまうんです。
現状に満足しているなら、そんな事は起きません。
"変わりたい"という思いは、周りからではなく、自分の中から出てくるものなんです。
自分の中から出てこなければ、"変わりたい"という思いを達成するのは難しいかもしれませんね。
周りがどのように思おうが、自分が必要ないと思うと、"変えない"、となってしまいます。
言い訳を探す、何かのせいにする、事実を歪曲してみる、正当化する、等々、
"変えない"という事に、必死にしがみつこうとしてしまいます。
周りとズレが大きければ大きい程、"変えない"為に使うエネルギーは莫大になっているでしょう。
"変えない"のは、下手すると、"変わる"以上のエネルギーを使っている場合もあります。
何もしていないはずなのに、疲れているという時は、何もしていないのではありません。
"変えない"という、その場で止まるという為に、エネルギーを使ってしまっているんです。
流れに逆らうのにエネルギーを消耗するって、もったいないですよね。

どうせ同じエネルギーを使うなら、自分が"変わりたい"という変化に使いたいですよね。
必ず、その思いが出てきたきっかけになる出来事があったはずです。
その出来事をもう一度思い出して、どんな自分になりたいのか、はっきりと目的を持って取り組んでみる。
最初は疲れるかもしれません。
でも、流れにさえ乗ってしまえば、案外とするするとなっちゃうものです。

流れに乗るのも自分、流れに逆らうのも自分、ただ、それだけなんです。
"変わりたい"と思ったのも自分、"変えない"と思ったのも自分。
どうせなら、変化が起ころうとしているのを、大事にしてみませんか。