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”自由なこころの空間”を提供する カウンセリングルームです

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心の強弱?

時々、心を強くしたい、メンタル面を強くしたいって話しを聞きます。
強くなれば悩むことなんてなくなるってことみたいです。
傷つけられたくないって気持ちもあるみたいですね。
確かに傷つくのって怖いですよね。出来ればそんな状況を避けたいですよね。
では、心が強ければ悩むことも傷つくことも避けられるんでしょうか?
ちょっと考えてみたいと思います。

強くするってことは、鍛えるってことになるんでしょうか?
てことは、鍛えられる環境にいなければできないですよね。
では、心が鍛えられる環境ってのはどんな環境なんでしょう?
なんか、僕の想像力が片寄ってるのかもしれませんが、非常につらい状況にいるように想像しちゃいますね。
では、心が強い人は、そんな環境をどうやって手に入れたんでしょうか?
なんか施設とかって話しは、個人的に苦手なので、ちょっとスルーさせてもらいます。
それ以外で考えると、あえて自分からそんな環境を作り出してる可能性がありそうですね。
案外気づかないことが多いんですが、状況って自ら作り出してることって意外と多いんです。

なんか非常に抽象的な話しになってきました。
もともと心って概念自体が抽象的だから仕方ないのかもしれません。
なんとなくですが、鍛えるってのは、イコールではないですが、慣れるに近いような気がしてきました。

どうなんでしょう、心が強い=打たれ強いでいいんでしょうか?
場数を踏んで、状況に慣れて、冷静に対処するってことになるんでしょうかね。
どうも個人的に根性論には懐疑的な意見をもってますんで、釈然としないですが・・・。

では、打たれ強い人は悩むことはないんでしょうか?
確かに危険回避能力は高いのかもしれませんねえ。
勝手に問題を解釈して、勝手に理解して、新たな問題を作っちゃう可能性の方が多いような気がしますが・・・。

同じ問題は存在しないと考えて、客観的に冷静に見極めて対処するって事が理想になるんでしょうか?
そんな人ってすごいですよね、素直にそう思います。ただ、近寄りづらいですよね、多分。

どうですか、結論として、今、悩んでることに真剣に向き合ってみる事が大事なんじゃないでしょうか?
とことん向き合ってみて、自分なりの答えを出すのが一番いいような気がします。
時間はかかるかもしれません、かからないかもしれません。
非常につらいかもしれません、つらくないかもしれません。
あくまでも、納得させるのは自分自身です。
自分自身を納得させるまで考えてみませんか?

思い込み (過干渉)

この前テレビを見てた時、魚の活き造りが出ていました。
刺身は鮮度が大事と言いますが、捌かれてるのにまだ動いてるんですよね。
個人的に刺身は好きですが、これってまさに人間の食に対する欲求の表れなんじゃないでしょうか。

どうも僕は食に対する欲求はそれほど強いほうではなくて、食べれればいいかなって感覚に近いですかね。
さすがに不味いものを食べたいとは思いませんが・・・。
だから、個人的意見としてですが、どうも活き造りは残酷に見えちゃうんですよね。
うわあ動いてるよ~って感じですかね。

食物連鎖からみても、人間は他の生き物を食べるわけです。
ですから、別に残酷なわけでもなく、普通に食事してるだけなんですよね。
そう考えると、ただ、それを見るか見ないかだけなんですかね。
僕はどうも見たくない気持ちが大きいんでしょうね。

さて、人は同じものを見ていても、感じ方は違います。
みなさんも色々と感じることはあるんじゃないでしょうか?

どうでしょう、なかには魚が痛くて動いててかわいそうと思う人もいるんじゃないでしょうか。
すごく共感的で優しい気持ちをもってるんでしょうね。

でも、ちょっとまってください。

実は、魚類には痛覚を感じる神経がないんですよ。神経がない以上、痛くはないんですよね。
逆に"痛みってなに?"って聞かれるかもしれませんよね、もちろんしゃべれませんが。

ある光景を見て、気をきかせたのに、相手は分かってくれない。
周りに気を使える人は、そんなことを感じることもあるんじゃないでしょうか。
そんな時は、ひょっとかしたら気を使い過ぎてるのかもしれません。
まずは自分でできることを試してみたら、今までと違う結果になるかもしれませんよ。

教えたいっていう欲求

前回の更新からちょっと時間が立ちすぎていますね。
なかなか書きたいことが纏まらず、時間だけが経っちゃいました。
なんて言い訳から始めちゃいましたが、ここは反省して早速始めたいと思います。

ある本に書かれていた事なんですが、人は基本的に人に教えたいという欲求があると書かれていました。
今回は、人に教えたいという欲求について考えてみたいと思います。

では、ちょっと考えてみて下さい。

あなたが悩みの相談を受けました。その相談内容は、自分も経験した悩みの内容でした。
今のあなたは自分なりの答えを見つけて解決しています。その人はまるで過去の自分のように感じています。

どうですか?その人に自分の経験を教えたくなりませんか?

いや、そんな事ないよ、答えは自分で見つけるもんだよって人は、ある意味素晴らしいと思いますね。
正直、僕もカウンセラーになる前は自分の経験を話していました。

さて、あなたはその人に自分の経験に基づいた解決方法を話してみました。

どうでしょう、自分の経験を話して相手がそのようにしてくれない事の方が多いんではないでしょうか?
せっかく教えてあげたのに、なんだかなあって経験の方が多いのではないでしょうかね?

さて、本題に戻ります。

その人の悩みは、本当にあなたの経験した悩みと一緒だったんでしょうか?
あなたは、あなた自身の考え方に基づいて答えを導き出しました。
あなた自身の考え方は、あなたが今まで関わってきた人達からも少なからず影響を受けています。
あなた自身の考え方があるように、もちろん相手にも相手自身の考え方があります。
もちろん、相手も今まで関わってきた人達から少なからず影響を受けています。

本当に一緒なんでしょうか?あれ、そう考えれば違うかもしれないって思いませんか?

そうなんです、同じかもしれないし、違うかもしれないんですよ。

なら、なぜ、教えたくなるんでしょう?

本当に教えたいんでしょうか?なにか違う欲求もあるように思いますね。

こう僕は解決したんだよって、相手に聞いて欲しいという欲求もあるように思いますね、個人的には。

どうですか?そう考えてみると、あなたの聞いて欲しいという欲求はすでに叶えられているんですよ。

しっくりこなければ、話したいという欲求の方がしっくりするかもしれないですね。

そう考えてみれば、相手がどのように選択しようが後は相手次第なんだなって思えませんか。

あ、もちろんこの考え方もあくまでも個人的経験に基づいてますので、その点も考慮して頂ければ幸いです。

 

 

 

嫌いじゃないの、嫌なだけ

タイトル見て、いきなりなんだ~って思ったかもしれませんが、最近聞いた歌のフレーズです。
なんか僕の中ですごく気になってるようで、時々浮かんできますんで、今回取り上げたいと思います。

まず、気になったのが、"嫌い"と"嫌"を別物ととらえてるとこですかね。
同じ漢字を使ってるのに、全く意味が違うんだよっていってるんですよ。
では、どう意味が違うんでしょうか?

"嫌い"という概念は、前提に"好き"があります。つまり反対語ですね。
”好き”があるから、”嫌い”が存在する。なんか哲学的ですが、ちょうど正反対に位置してるわけです。
これは僕の感覚ですが、"好き""嫌い"ってけっこう強い感情ではないかと思います。

"あなたのことが好き"
どうですか、なんかそう言ってる表情からも"好き"という感情が伝わりませんか?
文字にしてる僕のこっぱずかしさも伝わっていただければいいんですが・・・。

"あなたのことが嫌い"
う~ん、微妙に言い方のニュアンスで違う意味になりそうですね。
でも、今回は"嫌い"って言ってると仮定すると、頑なに拒絶の感情が伝わりませんか?
ただ、日常生活を送るうえで、相手に"嫌い"と伝えるのは、それほどないとは思いますが。
もし、"そんなことないよ、いつも使ってるよ"って人はちょっと気にした方がいいかもしれませんね。
強い感情なだけに"嫌い"って伝えられた相手は多分それ以降関わりを持たないでしょうから。
余談ですが、確かに正反対の感情に位置してますので、反転する可能性はありますけどね。

余談ついでにもう一つ。
言い方のニュアンスと書きましたが、言語としてのコミュニケーションって実は実験のデータの数字で表すと、たった7%だけなんです。残りの93%は表情と音声が占めているんですよ。
なんか、人間関係のトラブルや悩みが多いのも仕方ない気がしますよね。

では、"嫌"はどうなんでしょう。
"嫌"という言葉の反対語って・・・。自信ないですが、”好い”なのかなあ。
それだと、”良い”と”悪い”になりそうだし・・・。

”あなたのことが嫌”
どうですか?なんか釈然としないのは僕だけですかね?
”どこが?”って聞きたくなりませんか?
そして、そう聞いたら答えてくれるような気になりませんか?
”あなたのこういうとこが嫌”
相手にそう言われて、本当に思い当たるなら、直したら関係がよくなる気になりませんか?

”じゃあさ、ここ直したらいいのかな?”って言えるんじゃないでしょうか。

もし、本当に思い当たらないなら、相手にそのまま伝えてみて下さい。
もしくは、相手にも同じことが当てはまると思った時には・・・。
それは、間違いなく、相手の問題です。あなたに相手が無意識に自分の問題を重ねてるだけです。
もしくは、違う相手を重ねて見ているのかもしれないですね。
どちらにしても、それはもうあなたの問題ではなく、相手の問題になります。
もちろん、解決するのは相手です。相手の問題は相手だけの問題です。
あなたは、ただ見守るだけでいいんです。

まあ、”あなたの存在自体が嫌”なんて言う相手にまで合わせる必要はないと、個人的に思いますが・・・。
関係を続けるメリットがあるとは思えないですし、魅力ある相手とは思えないですしね。

物事のとらえかた

前回、京都の伏見稲荷の"千本鳥居"と"おもかる石"について書きました。
今回、さらにその上にある、"こだま池"であった事について書きたいと思います。

先に結論から述べますと、撮っちゃったんです、心霊写真を、たぶん。

"こだま池"周辺では、写真を6枚ほど撮ったんですが、池を2枚撮ったんですよ。
で、その1枚を見たとき、"なんか もやかかってるよねえ"って話してたんです。

で、年が明けてしばらくしてから、寝る前にその時の写真を見てたんですよ。
"あれ?この写真って確かもやかかってたよな・・・"
なぜか もやが晴れていて、なにか写ってるんですよ。夜中の1時過ぎです、言い知れない不安でぞくぞくってきましたね。
"なんでこんな時間に写真見直しちゃったのかな、寝れんぞ"って思いながら、寝てました・・・。

見間違いもあるかなって考えて、一緒に見た人にも確認したら、やっぱし当時は写真にもやがかかってました。

僕は霊感というものは全くないです。でも、けっこう自分でも不思議な体験はしています。
霊感があるという人と知り合う機会もそこそこあって、その人達からいろいろな話しも聞いたりしています。
そのかいもあってか、当時から考え方のベースに、自分は見えないけど、見えるんならあるんだろうね、って素直に思えます。

そんな僕も今回、ばーんと写真として目の前に見せつけられたわけです。
今まで見たことがなかった僕は、この出来事をどのように受け止めたか?

寝ちゃったのが、そのままの答えだと、自分では思います。
そのまま、あるがままに受け入れてるから、自然に寝れちゃったんでしょうね、多分。
起こった出来事にこだわることがあると、それにとらわれて寝付けなくなるってあるんじゃないでしょうか。
もちろん、いろいろある寝付けない要因の一つだとは思いますが。

あと、僕の考え方に、幽霊って究極のクライアントなんじゃないだろうかってありますね。なにか心残りがあって、すごく苦しんでこの世に留まってるわけです。
なら、間違いなく僕の領分です。映画の”シックス・センス”が理想といっても過言ではないですね。
残念ながら、見ることはできないんですが・・・。

このように物事をとらえるって、その人の思考がすごく重要なんです。それによって、行動と感情が決まってくるんです。
ちなみに一緒にみた人は元々霊感が強くて、同じ体験をしても違う物事のとらえかたをしてました。
僕は個人的にそれぞれのとらえかたがあって、いいんじゃないかなって思います。だって、楽しくないですか、みんな違うって事を素直に受け入れるだけで、考え方が広がる気がします。
どうせなら、たくさん吸収したいですよね。

偶然ではなく必然

今回はカウンセラーの資格を取る年の年末に、京都の伏見稲荷に行った時のお話しです。
以前から一度は訪れてみたいとは思ってたんですが、なかなか機会がなく、今回が初めての訪問でした。

まずは"千本鳥居"、話しには聞いてましたが、実際目の当たりにすると、圧倒されました。
あれだけの数の鳥居をくぐるって体験は他ではできないんじゃないでしょうか。
身が引き締まるというか、なんとなく鳥居のトンネルを潜ることによって、身を清められ神様の前に行くって感覚を初めて感じましたね。あ、ちなみに僕の宗教観は日本人らしい宗教観です。そんな僕ですらって感じですね、まさに。

"千本鳥居"をくぐった後に、"おもかる石"があります。
願い事をしながら灯籠の頭の石を持ち上げ、自分の想像より重く感じると願いが叶わず、軽く感じると願いが叶うという試し石です。
これは非常に面白い考えだなと思いました。
出来事(持ち上げる行動)は誰でも同じなんですが、結果(重い、軽い)が違ってくるんですよ。

なぜ、結果が違ってくるんですかね?

それは、簡潔に定義すると、出来事と結果の間に、信念(できる、できない)があるんです。

自分は願いを叶えられるって自分を信じてる人は、体感として、軽く感じることができるんです。
自分は願いを叶えられるって自分を信じれない人は、体感として、重く感じてしまうんです。

ちなみに僕はどう感じたかというと、めっちゃ軽く感じましたよ、いや、マジで。

この”おもかる石”は他にも色々な考え方を含んでいて、非常に興味深いですね。

今まで来たくても縁がなく、この年に初めて訪れたって事になんとなくですが、
”世の中に偶然はなく全て必然である”って気がしました。

ちなみに、ここではもう一つ不思議な体験をしたので、次回にその事について書いてみたいと思います。

落ち着ける場所

僕は学生時代から、京都が大好きで、京都によく行っています。
特にお気に入りの場所が、護国神社というとこで、坂本龍馬のお墓があるとこです。
ここは毎回京都に行ったら寄ってますね。ここから京都の街が一望できて、そこから京都の街並みを眺めるとなぜかよく分からないんですが、落ち着くんですよね。もう何十回行ったか分からないぐらい行ってます。
全然飽きることない、僕にとっての落ち着ける場所ですね。

カウンセラーの資格を取る前ですが、仕事でイライラすることがあって(内容は忘れちゃいましたが)、どうしても京都に行きたくなって、いつものように護国神社から京都の街並みを眺めていたら、不思議とイライラが収まりました。

当時はすごく不思議だなって感じたのを覚えています。

カウンセラーの資格を取った今は、いくつかの理由として、理解しています。が、なんか個人的に理屈じゃない気もしてますね。

落ち着ける場所があって、そこで自由に時間を使って、楽になる、うん、理屈なんかいらないですね。

ちなみに今の僕は、考えを整理する場所として、お風呂もお気に入りの場所になっちゃいました。
近場になって喜んでいいのかどうなのか・・・。

みなさんには、落ち着ける場所はありますか?

 

”真実”はたくさんある、”事実”はひとつだけ

ある人から聞いた話しで、家の庭にクロガネモチの木があって、そこに鳩が巣を作っていて、巣の中には卵もあったそうで、親鳥がいつも卵を温めてたそうです。
ところが、野良猫がどうも鳩なのか卵なのか狙ってたみたいで、気づいた時には 卵がなくなってたそうです。
その人は、野良猫が悪さしたから鳩がかわいそうだと思って、なんとかならないかと考えて、猫が悪さできないようにネットでも張ろうかなって話していました。

なるほど、ネットを張るという具体的な対策を講じることによって、その人は今後鳩が襲われるという自分が見たくない場面を防ぐことができるんだろうなと、僕は素直に思いました。

で、前置きが長くなっちゃいましたが、この話しの場面を今回使おうかなって思ってます。

ちょっと、想像してみてください。

襲った野良猫ですが、実は最近 子猫を産んで、子猫にお乳を与えるためいつもご飯を探しているんです。
ところが、近隣皆さんのマナーがしっかり行き届いているから、目につく食べ物はありません。
ここ数日、食べ物にありついていません。さすがにお乳も出なくなってきました。
そんなとき、ふと木を見上げると、鳩が巣を作ってるのに気づきました。
母猫として、このチャンスを逃すわけにはいきません。
思惑通り、ちょっと威嚇すると鳩は卵を残して飛んでいってしまいました。
巣に残された卵を食べ、なんとか子猫のためにお乳を出すことが出来るようになり、幼い命を守ることができました。

どうですか、最初の野良猫のイメージと違う印象を持ったんじゃないでしょうか?
悪戯ばかりする野良猫が、一気に母性愛に溢れた苦労している母猫になったんじゃないでしょうか?

僕なりにちょっと(かなり)脚色しちゃいましたが、僕たちの生活の場面でも、同じようなことがあるような気がしませんか?

人が知りえる情報って限られるし、その情報も自分の価値観というフィルターを通してみてしまうので、物事を客観的に見ることって非常に難しいことだと、個人的には思っています。

ですから、会話をすることって、非常に大事だと思います。なぜ、そんなことするんだろうって思うことがあったなら、そのまま相手に聞いてみてください。動物と違って、僕たち人間は会話というコミュニケーションという手段を持っています。僕個人的な考えですが、会話から情報を得ることによって、間違った解釈、誤解を少しでも防ぐことができるかもしれません。
もちろん、どんな事情があろうが、他人を傷つける行為をした以上、その行為の責任は償わなければなりません。可もなく不可もなくが大事ですが。

ちなみにこの話の元は、実際に僕の実家で普通に交わされた日常会話です。
日常会話ですが、それでもちゃんと本人にはここで書くよと了解済みです。
僕たちカウンセラーには守秘義務がありますので、職業上知りえた情報はむやみに他人に話すことはあり得ません。
こんな話しまでしてしまって大丈夫なんだろうかって心配になることもあるかもしれませんが、そんな時は逆に念を押すのもいいかもしれませんね。すごく安心させてもらえると思いますよ。

習慣を変えるということ

今までしてきた習慣を変えたいって思う事ってけっこうあるんじゃないでしょうか?
そして、その変化させたい習慣って、今までと全く逆のことが多いんじゃないですか?
さらにいうと、変化は簡単に起こせるけど、続かない事の方が多いんじゃないでしょうか?

なぜ、簡単に起こせるけど、続ける事って難しいんでしょうか?

実は物事の変化って真逆の方が変わりやすいんです。以前にも書かせてもらいましたが、禁煙、ダイエットもそうですよね。変わらなきゃいけないって思うぐらい吸い過ぎ、食べ過ぎだとすぐに変化できるんです。
それほど自覚してなければ、変えたいって思わないから、変わらないんです。

では、なぜ続かないのか?

要因の一つとして、習慣化してるのがあると思います。
興味がおありなら、普通にしていること、例えば、お風呂で最初に洗う場所が決まっているなら(ちなみに僕は左手からです)違う場所から洗ってみて下さい。すごく違和感を感じると思います。そして、多分 気づいたら元に戻ってると思われます。
靴を最初に履く足とかもいいかもしれないですね。(ここでも僕は左足です)

習慣化してる事を変化させる事って大変なことなんです。ちなみに僕はお風呂も靴もダメでした。

もう一つ、気をつけなければならない要因があって、その行為によって、無意識にストレス対処をしている場合は気をつけなければなりません。ストレスを解消する手段を無理やり辞めてしまうので、反動が大きくなってしまう可能性があります。新しい対処方法を確立してからの方がいいでしょうね。

出来なくて自分はダメだなあって考えると落ち込んじゃいますよね。元に戻っただけって考えてみると少しは気が楽になるんじゃないでしょうか?個人的にそのように考えています。

 

口は災いの元

今回は あるニュース記事をみて、個人的意見として述べてみたいと思います。
あえてどの記事かはここで書くつもりはありません。あしからず。

文章だと書きなおすことができます。例えば、この僕のコラムのコーナーなんて、本当に何度も何度も書き直しばっかしています。自分が思ってた以上に文字にするのは難しいと、悪戦苦闘しています。

言葉はどうなんでしょう?一度言葉として発すると 取り消すことは出来ないですよね。言い間違えたとか、意味が違うとか、ある意味言い訳っぽいなあって自分でも思いながら訂正することしかできないですよね。あとはひたすら謝るとか、僕も本当によくやっちゃいます。

個人だと、口は災いの元、ということわざを教訓として気を付けようとすればいいと、僕は思います。

あえて、個人と書かしてもらいました。では、公人は?

今一度、自分の発する言葉の重みを考えてもらいたいですね。集団を維持するために誰かを犠牲にするのを仕方ないなんて、とても公人の言葉として発したなんて、僕には信じられないです。今までどれだけその人達は人間としての尊厳を傷つけられてきたのか、さらにまだ傷つけるのか、たった一言でも、とんでもない影響力があるんです。なにか思い違いをしてるとしか、思えません。

信頼関係を築くことは、本当に大変なことですよね。それと対照的に、信頼関係を失うことは、本当に簡単です。個人で築いた信頼関係なら、個人の問題です。失っても、個人責任です。
失うかもしれない信頼関係は、一体どれだけの時間と、どれだけの人達の上に築かれた信頼関係だったんでしょうね。