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インテル 入ってる!?

今朝の出勤途中のラジオで、あまりにも凄いと思ったニュースを聞いたので、取り上げてみたいと思います。
テクノロジー業界のインテル社が、FCバルセロナとスポンサー契約をしたというニュースです。
よく見ますよね、ユニフォームにロゴマーク入ってるとか、球場に社名入ってるとか、いわゆる企業の広告方法ですね。
普通に聞くと、ふーん、そうなんだーって別に気にも止めないぐらいではないですか。
正直、内容を聞くまで、興味を引かれませんでしたね。
それが、凄く食いついちゃうぐらいの内容だったんです。

どんな内容だったかというと・・・
普通は広告として見えるように社名を入れますよね。
広告ですから、当たり前ですよね。
ところが、ユニフォームの内側に社名を入れてるんですよ。
普段は見えないところに、社名を入れる。
まさしく、インテル 入ってる、です。

今までと違う事をする、当たり前ではないことをする。
この発想は、とんでもなく凄い、と思いました!
これは、凄い宣伝効果だと、僕は思います。
ゴール決めた時に、選手は間違いなく、ユニフォームをまくるわけです。
そこに、ほら、インテル 入ってる、ですよ。
スポーツ記者もその瞬間を写真に撮るし、放映でも流れるわけです。
それ以前に、前評判でこれだけインパクト与えていますし、それに僕も乗っかっちゃってるし・・・。
広告効果としては、これ以上ない効果ではないでしょうか。

物事が上手くいかない時は、当たり前だと思ってる事を、当たり前だと思わない。
僕も仕事でよく使う思考の一つです。
改めて、発想の転換って大事なことだなと気づかされたニュースでした。

適度に~する

前回こらむでも最後に、可もなく不可もなく、と触れました。
以前にも、メインタイトルで書くぐらい、僕の中では重要なキーワードだなって考えています。
どうして、それほど重要視してるか、今回書いてみようと思います。

実は、可もなく不可もなく、と同じ意味合いで以前から使っている言葉が、適度に~してね、です。
主に使うのは、仕事(カウンセラー)を離れたプライベートです。
この言葉って、言われた相手が自分の判断で決めれるかなって思い、使い始めました。
例えば、適度に頑張ってね、と使ったとします。
自分でちょっとしんどいなあって感じてる人は、適度に力を抜こうかなって判断してくれるかもしれません。
自分でちょっと頑張り足りないなあって感じてる人は、適度に頑張ろうかなって判断してくれるかもしれません。
適度に頑張ってる人は、そのままの文面でとらえてくれるかもしれません。
あくまでも、判断基準は相手に任せる、という意味合いの言葉です。

自分で物事を解決出来る人は、僕も含めてですが、ある意味純粋ではない、と言えるかもしれません。
まさしく、適度に~する、ですね。
どう言う事かというと、困った事が起こったとしても、上手く教えられた事(自分で決めた事)を状況に応じて変化できるんです。上手く解釈出来る、ですかね。原則と例外を作っちゃうとか・・・。
それって、元々の教えられた事(自分で決めた事)とは違っていますよね。
ですから、純粋ではない、といえるかなと・・・。
もちろん、僕自分も含めてですので、悪い意味ではありませんよ、僕は自分好きですんで(笑)

物事には、丁度いい位置関係があります。
距離感、といってもいいかもしれませんね。
親子関係、仕事関係、友達関係、夫婦関係、それぞれ人に寄って立ち位置って違っていますよね。
では、適度に仲良くね、と使ったとします。
ちょっと踏み込み過ぎてるなあって感じてる人は、適度に距離を取ろうとするかもしれません。
ちょっと離れ過ぎてるなあって感じてる人は、適度に距離を縮めようとするかもしれません。
そういう人は、相手との関係で、思い当たる事があるわけです。
それは、本人にしか分かりません。
ですから、ここも判断基準は相手に任せる、です。

相手に任せるって、冷たいなあって感じますか?
では、こう言い換えるとどうですか?
相手を信じてるから、相手に任せてる、です。
信じるってのは、信じる事によって、信じた自分も責任も負ってるんです。
これが丁度いい距離感ではないかと、僕は思っています。

手を差し伸べるのは、本当の意味では、自分が楽をしたい、とも言えます。
自分が相手をコントロールできるから、少なくとも自分の不安はなくなりますよね。
でも、相手が自分で解決できる可能性も、奪ってしまっているんです。
大事なのは、見極め、ではないでしょうか?
ここまでは、大丈夫、でも、これ以上はキツイかも・・・。
そんな時は、一言、”大丈夫?”、と聞いてみましょう。
”大丈夫だよ”なら、見守ってみましょう。それだけでも、心強いものです。
”大丈夫じゃないかも”、なら、手を差し伸べてみましょう。今はまだ、解決出来ないのでしょう。
何か日常生活に弊害が出だしたら、”何かあった?”で見極められるかもしれません。

たった一言、されど一言、コミュニケーションはこれだけでも、十分成り立ちます。
大切なのは、必要な時に必要な事をする事、だけです。

では、適度に出来ない時は、どうすればいいんでしょう?
それは、自分一人で解決するのは、難しいかもしれませんね。
今までも周りの人に相談しても解決できない状態なんでしょうね。
そんな時の為に、プロのカウンセラーがいるんです。
体調悪い時は、病院に行ってお医者さんに診てもらいますよね。
それと同じです、心の調子が悪い時は、カウンセラーです。
きっとあなたの助けになると思いますよ。

 

 

 

 

 

 

思い込み (過干渉)

この前テレビを見てた時、魚の活き造りが出ていました。
刺身は鮮度が大事と言いますが、捌かれてるのにまだ動いてるんですよね。
個人的に刺身は好きですが、これってまさに人間の食に対する欲求の表れなんじゃないでしょうか。

どうも僕は食に対する欲求はそれほど強いほうではなくて、食べれればいいかなって感覚に近いですかね。
さすがに不味いものを食べたいとは思いませんが・・・。
だから、個人的意見としてですが、どうも活き造りは残酷に見えちゃうんですよね。
うわあ動いてるよ~って感じですかね。

食物連鎖からみても、人間は他の生き物を食べるわけです。
ですから、別に残酷なわけでもなく、普通に食事してるだけなんですよね。
そう考えると、ただ、それを見るか見ないかだけなんですかね。
僕はどうも見たくない気持ちが大きいんでしょうね。

さて、人は同じものを見ていても、感じ方は違います。
みなさんも色々と感じることはあるんじゃないでしょうか?

どうでしょう、なかには魚が痛くて動いててかわいそうと思う人もいるんじゃないでしょうか。
すごく共感的で優しい気持ちをもってるんでしょうね。

でも、ちょっとまってください。

実は、魚類には痛覚を感じる神経がないんですよ。神経がない以上、痛くはないんですよね。
逆に"痛みってなに?"って聞かれるかもしれませんよね、もちろんしゃべれませんが。

ある光景を見て、気をきかせたのに、相手は分かってくれない。
周りに気を使える人は、そんなことを感じることもあるんじゃないでしょうか。
そんな時は、ひょっとかしたら気を使い過ぎてるのかもしれません。
まずは自分でできることを試してみたら、今までと違う結果になるかもしれませんよ。

嫌いじゃないの、嫌なだけ

タイトル見て、いきなりなんだ~って思ったかもしれませんが、最近聞いた歌のフレーズです。
なんか僕の中ですごく気になってるようで、時々浮かんできますんで、今回取り上げたいと思います。

まず、気になったのが、"嫌い"と"嫌"を別物ととらえてるとこですかね。
同じ漢字を使ってるのに、全く意味が違うんだよっていってるんですよ。
では、どう意味が違うんでしょうか?

"嫌い"という概念は、前提に"好き"があります。つまり反対語ですね。
”好き”があるから、”嫌い”が存在する。なんか哲学的ですが、ちょうど正反対に位置してるわけです。
これは僕の感覚ですが、"好き""嫌い"ってけっこう強い感情ではないかと思います。

"あなたのことが好き"
どうですか、なんかそう言ってる表情からも"好き"という感情が伝わりませんか?
文字にしてる僕のこっぱずかしさも伝わっていただければいいんですが・・・。

"あなたのことが嫌い"
う~ん、微妙に言い方のニュアンスで違う意味になりそうですね。
でも、今回は"嫌い"って言ってると仮定すると、頑なに拒絶の感情が伝わりませんか?
ただ、日常生活を送るうえで、相手に"嫌い"と伝えるのは、それほどないとは思いますが。
もし、"そんなことないよ、いつも使ってるよ"って人はちょっと気にした方がいいかもしれませんね。
強い感情なだけに"嫌い"って伝えられた相手は多分それ以降関わりを持たないでしょうから。
余談ですが、確かに正反対の感情に位置してますので、反転する可能性はありますけどね。

余談ついでにもう一つ。
言い方のニュアンスと書きましたが、言語としてのコミュニケーションって実は実験のデータの数字で表すと、たった7%だけなんです。残りの93%は表情と音声が占めているんですよ。
なんか、人間関係のトラブルや悩みが多いのも仕方ない気がしますよね。

では、"嫌"はどうなんでしょう。
"嫌"という言葉の反対語って・・・。自信ないですが、”好い”なのかなあ。
それだと、”良い”と”悪い”になりそうだし・・・。

”あなたのことが嫌”
どうですか?なんか釈然としないのは僕だけですかね?
”どこが?”って聞きたくなりませんか?
そして、そう聞いたら答えてくれるような気になりませんか?
”あなたのこういうとこが嫌”
相手にそう言われて、本当に思い当たるなら、直したら関係がよくなる気になりませんか?

”じゃあさ、ここ直したらいいのかな?”って言えるんじゃないでしょうか。

もし、本当に思い当たらないなら、相手にそのまま伝えてみて下さい。
もしくは、相手にも同じことが当てはまると思った時には・・・。
それは、間違いなく、相手の問題です。あなたに相手が無意識に自分の問題を重ねてるだけです。
もしくは、違う相手を重ねて見ているのかもしれないですね。
どちらにしても、それはもうあなたの問題ではなく、相手の問題になります。
もちろん、解決するのは相手です。相手の問題は相手だけの問題です。
あなたは、ただ見守るだけでいいんです。

まあ、”あなたの存在自体が嫌”なんて言う相手にまで合わせる必要はないと、個人的に思いますが・・・。
関係を続けるメリットがあるとは思えないですし、魅力ある相手とは思えないですしね。

物事のとらえかた

前回、京都の伏見稲荷の"千本鳥居"と"おもかる石"について書きました。
今回、さらにその上にある、"こだま池"であった事について書きたいと思います。

先に結論から述べますと、撮っちゃったんです、心霊写真を、たぶん。

"こだま池"周辺では、写真を6枚ほど撮ったんですが、池を2枚撮ったんですよ。
で、その1枚を見たとき、"なんか もやかかってるよねえ"って話してたんです。

で、年が明けてしばらくしてから、寝る前にその時の写真を見てたんですよ。
"あれ?この写真って確かもやかかってたよな・・・"
なぜか もやが晴れていて、なにか写ってるんですよ。夜中の1時過ぎです、言い知れない不安でぞくぞくってきましたね。
"なんでこんな時間に写真見直しちゃったのかな、寝れんぞ"って思いながら、寝てました・・・。

見間違いもあるかなって考えて、一緒に見た人にも確認したら、やっぱし当時は写真にもやがかかってました。

僕は霊感というものは全くないです。でも、けっこう自分でも不思議な体験はしています。
霊感があるという人と知り合う機会もそこそこあって、その人達からいろいろな話しも聞いたりしています。
そのかいもあってか、当時から考え方のベースに、自分は見えないけど、見えるんならあるんだろうね、って素直に思えます。

そんな僕も今回、ばーんと写真として目の前に見せつけられたわけです。
今まで見たことがなかった僕は、この出来事をどのように受け止めたか?

寝ちゃったのが、そのままの答えだと、自分では思います。
そのまま、あるがままに受け入れてるから、自然に寝れちゃったんでしょうね、多分。
起こった出来事にこだわることがあると、それにとらわれて寝付けなくなるってあるんじゃないでしょうか。
もちろん、いろいろある寝付けない要因の一つだとは思いますが。

あと、僕の考え方に、幽霊って究極のクライアントなんじゃないだろうかってありますね。なにか心残りがあって、すごく苦しんでこの世に留まってるわけです。
なら、間違いなく僕の領分です。映画の”シックス・センス”が理想といっても過言ではないですね。
残念ながら、見ることはできないんですが・・・。

このように物事をとらえるって、その人の思考がすごく重要なんです。それによって、行動と感情が決まってくるんです。
ちなみに一緒にみた人は元々霊感が強くて、同じ体験をしても違う物事のとらえかたをしてました。
僕は個人的にそれぞれのとらえかたがあって、いいんじゃないかなって思います。だって、楽しくないですか、みんな違うって事を素直に受け入れるだけで、考え方が広がる気がします。
どうせなら、たくさん吸収したいですよね。

偶然ではなく必然

今回はカウンセラーの資格を取る年の年末に、京都の伏見稲荷に行った時のお話しです。
以前から一度は訪れてみたいとは思ってたんですが、なかなか機会がなく、今回が初めての訪問でした。

まずは"千本鳥居"、話しには聞いてましたが、実際目の当たりにすると、圧倒されました。
あれだけの数の鳥居をくぐるって体験は他ではできないんじゃないでしょうか。
身が引き締まるというか、なんとなく鳥居のトンネルを潜ることによって、身を清められ神様の前に行くって感覚を初めて感じましたね。あ、ちなみに僕の宗教観は日本人らしい宗教観です。そんな僕ですらって感じですね、まさに。

"千本鳥居"をくぐった後に、"おもかる石"があります。
願い事をしながら灯籠の頭の石を持ち上げ、自分の想像より重く感じると願いが叶わず、軽く感じると願いが叶うという試し石です。
これは非常に面白い考えだなと思いました。
出来事(持ち上げる行動)は誰でも同じなんですが、結果(重い、軽い)が違ってくるんですよ。

なぜ、結果が違ってくるんですかね?

それは、簡潔に定義すると、出来事と結果の間に、信念(できる、できない)があるんです。

自分は願いを叶えられるって自分を信じてる人は、体感として、軽く感じることができるんです。
自分は願いを叶えられるって自分を信じれない人は、体感として、重く感じてしまうんです。

ちなみに僕はどう感じたかというと、めっちゃ軽く感じましたよ、いや、マジで。

この”おもかる石”は他にも色々な考え方を含んでいて、非常に興味深いですね。

今まで来たくても縁がなく、この年に初めて訪れたって事になんとなくですが、
”世の中に偶然はなく全て必然である”って気がしました。

ちなみに、ここではもう一つ不思議な体験をしたので、次回にその事について書いてみたいと思います。

”真実”はたくさんある、”事実”はひとつだけ

ある人から聞いた話しで、家の庭にクロガネモチの木があって、そこに鳩が巣を作っていて、巣の中には卵もあったそうで、親鳥がいつも卵を温めてたそうです。
ところが、野良猫がどうも鳩なのか卵なのか狙ってたみたいで、気づいた時には 卵がなくなってたそうです。
その人は、野良猫が悪さしたから鳩がかわいそうだと思って、なんとかならないかと考えて、猫が悪さできないようにネットでも張ろうかなって話していました。

なるほど、ネットを張るという具体的な対策を講じることによって、その人は今後鳩が襲われるという自分が見たくない場面を防ぐことができるんだろうなと、僕は素直に思いました。

で、前置きが長くなっちゃいましたが、この話しの場面を今回使おうかなって思ってます。

ちょっと、想像してみてください。

襲った野良猫ですが、実は最近 子猫を産んで、子猫にお乳を与えるためいつもご飯を探しているんです。
ところが、近隣皆さんのマナーがしっかり行き届いているから、目につく食べ物はありません。
ここ数日、食べ物にありついていません。さすがにお乳も出なくなってきました。
そんなとき、ふと木を見上げると、鳩が巣を作ってるのに気づきました。
母猫として、このチャンスを逃すわけにはいきません。
思惑通り、ちょっと威嚇すると鳩は卵を残して飛んでいってしまいました。
巣に残された卵を食べ、なんとか子猫のためにお乳を出すことが出来るようになり、幼い命を守ることができました。

どうですか、最初の野良猫のイメージと違う印象を持ったんじゃないでしょうか?
悪戯ばかりする野良猫が、一気に母性愛に溢れた苦労している母猫になったんじゃないでしょうか?

僕なりにちょっと(かなり)脚色しちゃいましたが、僕たちの生活の場面でも、同じようなことがあるような気がしませんか?

人が知りえる情報って限られるし、その情報も自分の価値観というフィルターを通してみてしまうので、物事を客観的に見ることって非常に難しいことだと、個人的には思っています。

ですから、会話をすることって、非常に大事だと思います。なぜ、そんなことするんだろうって思うことがあったなら、そのまま相手に聞いてみてください。動物と違って、僕たち人間は会話というコミュニケーションという手段を持っています。僕個人的な考えですが、会話から情報を得ることによって、間違った解釈、誤解を少しでも防ぐことができるかもしれません。
もちろん、どんな事情があろうが、他人を傷つける行為をした以上、その行為の責任は償わなければなりません。可もなく不可もなくが大事ですが。

ちなみにこの話の元は、実際に僕の実家で普通に交わされた日常会話です。
日常会話ですが、それでもちゃんと本人にはここで書くよと了解済みです。
僕たちカウンセラーには守秘義務がありますので、職業上知りえた情報はむやみに他人に話すことはあり得ません。
こんな話しまでしてしまって大丈夫なんだろうかって心配になることもあるかもしれませんが、そんな時は逆に念を押すのもいいかもしれませんね。すごく安心させてもらえると思いますよ。

口は災いの元

今回は あるニュース記事をみて、個人的意見として述べてみたいと思います。
あえてどの記事かはここで書くつもりはありません。あしからず。

文章だと書きなおすことができます。例えば、この僕のコラムのコーナーなんて、本当に何度も何度も書き直しばっかしています。自分が思ってた以上に文字にするのは難しいと、悪戦苦闘しています。

言葉はどうなんでしょう?一度言葉として発すると 取り消すことは出来ないですよね。言い間違えたとか、意味が違うとか、ある意味言い訳っぽいなあって自分でも思いながら訂正することしかできないですよね。あとはひたすら謝るとか、僕も本当によくやっちゃいます。

個人だと、口は災いの元、ということわざを教訓として気を付けようとすればいいと、僕は思います。

あえて、個人と書かしてもらいました。では、公人は?

今一度、自分の発する言葉の重みを考えてもらいたいですね。集団を維持するために誰かを犠牲にするのを仕方ないなんて、とても公人の言葉として発したなんて、僕には信じられないです。今までどれだけその人達は人間としての尊厳を傷つけられてきたのか、さらにまだ傷つけるのか、たった一言でも、とんでもない影響力があるんです。なにか思い違いをしてるとしか、思えません。

信頼関係を築くことは、本当に大変なことですよね。それと対照的に、信頼関係を失うことは、本当に簡単です。個人で築いた信頼関係なら、個人の問題です。失っても、個人責任です。
失うかもしれない信頼関係は、一体どれだけの時間と、どれだけの人達の上に築かれた信頼関係だったんでしょうね。

 

 

 

”変われる” vs ”変われない”

人って、”変われる”か”変われない”か、どう思いますか?
みなさん、色々 意見があるんじゃないでしょうか?
”変われる”時もあれば”変われない”時もあるなんて意見もあるかもしれないですね。

では、こうすればどうです?

”変わる” vs ”変わらない”

同じ意味合いなのに、ちょっとニュアンス変えただけで見方が変わったと思いませんか?

どちらも自分の意志で決めることが出来ると思えませんか?

あの人のおかげで”変わる”ことができた、あの人のせいで”変わらなかった”・・・
僕も昔はそんな風に考えたこともありました。

でも、違うんですよね。”変わった”のは自分の意志、”変わらなかった”のも自分の意志なんですよね。

人の本質は”変わらない”って意見もありますが、その人の本質って簡単に定義できるものなんでしょうか?
あなたの本質はこうだから”変わらない”なんて、言われたくないですね、少なくとも僕は。
”変わらない”のは自分自身で決めたことの方がいいですね。

人は、”変わりたい”なら、自分自身で ”変わる”ことが出来ると 僕は信じています。

"でも~"は気をつけて

あなたの周りにいる人で会話中に、"でも~"を多用してる人はいませんか?
もし思い当たるなら、その人と会話してると、無駄に時間もかかるし、なんか嫌な気分になるんだよなあって感じてるんじゃないでしょうか?

一体なぜなんでしょう?

例えるなら会話は、自分にとって気になることがなければ、そのまま水の流れのように自然に流れていきます。当たり障りのない世間話なんかいい例になるかもしれませんね。ところが、”でも~”という接続詞を相手が発することによって、流れがちょっと悪くなってしまうんです。まるで石がいきなりでてきたってとこですかね。
そうです、”でも”は、否定の接続詞ですから、水の流れを否定してるんですよ。
”なるほど、確かにそうだよね”だと、肯定されてますが、
”なるほど、確かにそうだよね、でも~”だとどう感じますか?
たった一言付いただけでなんか自分の意見を否定された気になりませんか?否定されてるから、どうしても受け入れて欲しくてまた同じような会話を続けてしまう。もちろん相手も”でも~”を続けてしまう。
お互い疲れちゃいますよね。

では、どうしたらいいんでしょうか?一つの方法として、相手が”でも~”と発したら、逆に問いかけてみてください。”というと?”てな具合に。そうすることによって、相手が発する”でも~”は減ってくる可能性があるんじゃないでしょうか?あなたが流れを持ってると同じようにもちろん相手も流れを持っていますので。

そういえば、自分は”でも~”を多用してるなあって思ったら、今後気を付けるようにしてください。意識するだけで、大分変わってきますよ。

もっと詳しく知りたいなら、当カウンセリングルームの”エゴグラム体験”をお勧めします。よろしければ、ご参考までに是非。